『クリアグラスクロス』小牧ハル著  その作家は、自分にお化粧でもするかのようにやさしく、画用紙に短くなったクレパスを塗っていった。美しく乗りのよい画材に、作家は何事かをささやく。  画用紙の上に出来上がりつつあるマタビオ駅は、夕刻のフランス独特の雰囲気を醸し出している。トゥールーズ市内においてこの一日に愛されたワインたちの芳香。この香りや雰囲気は、写真機ではとても表わせまい。  群衆の中、流行歌を口遊む切符売り場の駅員。肩を組んでうたう作業服を着た労働者たち。どこからか聞こえる笑い声、仕事帰りの解放感から酒を飲み、酔いの快楽に、なおも緊張をときほぐす満足気な人々。お互いに注ぎあった上質な視線にのぼせ、ゆっくりと揺れている若い男女。すました顔で新聞を読む背広着の紳士たち、きっとその目は77年度のブドウの出来具合でも追っているのだろう。誰もが人生を楽しみ、街全体の一体感に安心するとき。  だが……。  同時に、細身の作家もちらりと横を見る。ほろよい機嫌で駅を利用する人々の外れ、作家と同じように、壁に背を向けた厳しい顔の若い司祭が立っている。作家が駅に到着したとき、際立った彼はすでにいた。きつく閉じた口。人でも待っているのだろうが、そんな恐い顔をしていたのでは相手は見ぬ振りして帰ってしまうのではないか。  作家は小さくつぶやいた。おもしろいわ、マタビオ駅に似つかわないなんて。  クレパスを慎重に選び、作家は画用紙の片隅にその姿を描く。彼の聖職カラー、帽子の下の明茶色の頭髪、色白の肌、腕時計を見る青緑の瞳。モデルとなるゲルマンの長身の彼に、ひとりの老夫が話しかける。 「これはこれは神父さま、初に御目にかかります」  司祭は細めた目ながら正面から相手を受ける。 「そうでしょう。初めまして」  司祭がそう答えると、フードの男は顔に皺を寄せてにやけた。 「わしなぞに返事をして下さるとは、やっぱり神父さまは親切だな。ほかの奴は大抵、人のことを馬鹿にして返事もしない。うちの工場長なんかは特にそうさ。ん、まあアレも己れの誕生日だけは愛想いいがな」  司祭の堅い表情が崩れるのを見て、老夫は赤鼻を膨らませて喜ぶ。男は司祭のトランクを見て言った。 「見た所、神父さまは遠いとこからいらしたようだ。どこからいらしたんです」 「スイスのモントルーです」 「ふぅん、モントルー? で、トゥールーズにいらしたんは初めてですかい」 「ええ、初めて」 「ここは良いとこですよ。皆は親切、仕事にあぶれることなし。神父さまの好きそうな、そりゃあものすげえ古い教会もある。そしてなによりワインがうまい。住み安さではパリやリヨンにも負けねえ自信がありますや」  男はしゃくる。漂う熟成香が目に見えるようだ。 「そういやあ神父さまは先からここにいらしてるようだが、なんかあんですか」 「ええ、知り合いの神父と待ち合わせしているのですが、定刻になってもいらっしゃらず困っています。まあ、実際はどうか知れませんが」  その視線の先の、駅を無秩序に行き交う群衆。 「はぁん。で、その神父さまとお二人で、世間とは時期と場所をずらした休暇旅行ですかい」 「いいえ。残念ながら今回は、務めでしてね」  期待か諦めか、司祭の口元にうっすらと微笑みが浮かんだ。ふと気づいた様子で、作家は画用紙を替える。  写真機では切り取れない優しい場面。  だが、構内のざわめきが高まった瞬間、神父と話すフードの老夫が作家に顔を向け、真っ赤な口を開けた。  ――群集から視線を戻した神父に老夫はにっこり微笑み、手を振って離れて行った。  ジュースを一度口に含み、彼女は止まっていたクレパスを再び描写に走らせる。 ■1  スイスの保養地として知られるモントルーの外れ。  教会礼拝堂の天井から、蛍光灯が薄暗いその中に光を送っている。  聖堂内には朝の祈りを終えた若い司祭がおり、彼の師の書いた一冊の書籍に読みふけていた。  彼の恩師ローランスはエクソシストであった。彼の前に立ち塞がってきた個性的な負者たちの記録と、それへの機転の利いた処置により、名は広く知られていた。  悪魔祓い師は聖職者である。街の霊能者のように頻繁に儀式を行うことはないし、まずその儀式の執行のためには管轄司教の厳しい審査を越えなければならない。儀式ごとに許可が必要である。エクソシストも司教も、妄想めいた言動は好まないのだ。彼らには、長い歴史を持ち、そして世界で最も人々に接している教えを守るための責任がある。「理性」を持つ人間でなければならない。妄言家は組織で潰す。  カトリックでは公式な文書として悪魔祓い儀典書を作成しているが、これは悪魔祓いを推奨しているのではなく、逆に乱発させないためなのだ。その長い歴史の中、様々な異端が生まれてきた。だから教会は監視する。  日常のエクソシストは、普通の神父として勤めを果たそうと努力している。言論に拠らない「古臭い儀式」を行う者と見られるのが嫌なのだ。だが強烈に焼きついた儀式中の印象は、生活を困難とする。ミサの最中、瞬間的にも自分が何者かを忘れ、朗読を止める。自身の意識もなく、独り言を呟く。中には、笑うことが出来なくなる者もいる。  よってエクソシストは大抵孤独だ。  だが、ローランスは言った。 「私には親友がいる」それは緑目の神父と。  実際、かの悪魔祓い師ローランスは恵まれていた。小教区の主任司祭としての居場所がある。しかも日当たりの良い南フランス、トゥールーズにだ――  ――礼拝堂中が赤く染まる。  青白い蛍光灯の光を蔭に置き、外の朝焼けが礼拝堂中に溢れた。  司祭は青緑のその瞳を上げ、振り返る。開いた扉の前にはもう一人司祭が立っていた。  扉の前に立つ司祭に、朝日を受けた緑目を細めて尋ねる。 「エルズナー神父か。用事か」  エルズナーと呼ばれた司祭が言った。 「グラス君、途中まで僕が送るよ」 「助かる」 「今回は特別な儀式だ。経験を積んでこいよ」 「私に与えられた仕事だ。気分に関わらずこなすさ」  グラスは腕時計を確認し、両側に椅子の並ぶ会堂の中央からエルズナーに寄った。 「食事を摂るさ」  エルズナーが唸る。 「『なんでもこなす』か」 「今回は私情もある。誰だって恩師の手伝いは喜んでするものだろう? エルズナー神父」 「わざわざスイスから呼ぶなんてな」 「私はイエズス会士だ。お招きならば」  エルズナーは中指で眼鏡を高く押し上げる。彼は仕方なさそうに笑んで片眉を上げた。 「まったく。特殊な儀式には、君のように頭の回転の早い人の助けも必要だろう」 「また何か言ってるな」 「主任の話では、あちらの司教の要請らしい。そんなこと滅多にない」 「それをいうなら、まず、儀式自体がだ」  やっと見せたグラスの笑いに、エルズナーは大きく頷いた。  パンとミルクコーヒーという朝の食事を取り、準備を整えて玄関前に現われたグラスを司祭館の家族たちが見送る。朝に弱い白髪の主任司祭もいる。  近くの寮からの修道女たちがグラスに包みを渡す。 「お昼用のサンドウィッチです。列車の中で食べて下さい。小説に夢中になって、忘れはしない事」 「ありがとう。だがその言い付けを守るなら朝のうちに食べた方がよさそうだ」  全員が笑った。  エルズナーが言う。 「僕は彼を駅まで送ってきますよ」  グラスは帽子の鍔を軽く持ち上げ、エルズナーと共に歩き始めた。  聖堂の正面から、長年の風化を夏のあいだに修繕した石段を下り、段のうちにも広がる枯葉を踏みながらエルズナーが言う。 「そういえば君よ、貸してくれるはずの本はどうなった」 「ああ読んでる途中でな」グラスはトランクを叩く。「ガイドブックとな、中にある」 「ひどいな。君が帰るまでお預かい」 「少しの辛抱だ。恨むなよ」 「少し? 十二月までまだ三週間もあるのにな。待てそうにないから帰りに書店にでも寄るかな」 「無駄なことはするまいよ君」  ふたりは湖の傍の歩道路を歩いていた。岸から遠く離れた水のおもて、赤いボートが光の瞬きの中に包まれている。幼い男の子と毛むくじゃらの犬とが、声を洩らして水のほとりで戯れている。グラスは道の脇に続くカエデの鮮紅色を順に眺めながら、しばらくエルズナーの話を聞いていた。 「……今日は暖かい」 「え」  映画の話の腰を折られてエルズナーはグラスの顔を見る。 「何の話だい」 「ああ、今日は風が冷たくない……」 「なるほど、そうかもなあ」  エルズナーはレマン湖の方を見て頭を掻き、黙ってしまった。  グラスは湖の先を見る。対岸の街はどうだろうか。山脈の影にも、この風は届いているのだろうか。  それにしても、と思い出したようにエルズナーがグラスの胸をノックした。 「僕はグラス君がうらやましい。出張に、あの人数で送ってもらえるなんて僕にはないことだ。まあ君は、沢山の言葉を知っているからな。『ロマンシュ語から、ヘッセンの方言に至るまで』かよ? 保養に来ているよその人たちも、ミサの後に自分の故郷の言葉で語りかけてくれる神父がどれほど頼りがいのあることか。なおかつ滞在中の世話までだ。これは当然休暇期の後には、感謝の手紙で棚が埋まるだろうさ。まあ……それ以前に、君の器量がいいということもあるだろうが」 「なんだか」 「いやいや君の人徳が高いのは事実さ。善人が皆から好かれるのは仕方のないことだ。な?」  グラスのため息を見てエルズナーは軽く咳払いをする。 「まあ、これぐらいか。それでは今回の儀式、がんばってくれたまえよ。僕は君からラテン語の発音を教わらなくてはならないから、ぜひ、生きて帰ってもらいたい」 「ひどい冗談だ、神父」  グラスは笑ってエルズナーの肩を叩き返した。  レマン湖に沿って敷かれた歩道路も序々に水際から離れていき、駅前通りへと続く。商店の連なる黄土色の通りを歩いていると、店の窓を磨いていた白衣の老人から彼らは大声で呼び止められた。 「やあお二人さま。どこかにお出掛けかね」 「ああ水晶堂の親父さん。まずいところを見られたな」 「悪さかね?」 「まさかね。今日から十二月の上旬までグラス君がトゥールーズの教会へ手伝いに行くのさ」 「ほお、そうか。やはりラエリネック神父さまは働き者だな。ロボットと言われるだけある。ところで、きのう面白い形の緑柱石が入ったんだが見て行かれんかな」 「いや親父さん、見てわかるだろ? 僕はこの重たいトランクを持ってグラス君を送らなきゃならない。列車に遅れるとグラス君の気が違うからもう行くよ。悪いね」  少しぐらい遅れても良かろうに。老人は髭を撫でて言った。 「そうか。お務めか。しょうもない……。だがラエリネック神父さまもたまにはお休みなさいよ」 「機会があれば」  グラスは笑って見せる。 「にしても、うちらの神父さまがわざわざ行くほどの仕事が、フランスになんかあるんかねえ」 「あるんですよ。甚だしい、やっかいなのが」  エルズナーは身を屈めて言う。 「ほう、そりゃ一体?」 「エクソシズム」  呆れてグラスは駅へ向かって歩き出した。  口の軽いエルズナーが慌てて追う。残された主人はバケツに布切れを投げ付ける。 「悪魔祓いだって?」 ■2  車窓に映るレマン湖。収穫期を過ぎたブドウ畑。幾つかの街。流れる木々。悠々と角度を変え、手前の山の背後に隠れる、遠方の山の頂。線路の彼方。澄みきった空の高み。  窓際にかけた頬杖と横顔とにあたる風を、グラスは心地よく受ける。  彼は幾度となく旅をしてきた。長い旅や短い旅、どれも充実していたと記憶している。旅は大抵、一人であった。一人の旅は常に自分と行動を共にし、そして自分自身を知って驚く……、先人もそう書き記している一人旅だ。  唯一の後悔の旅。数ある中でも、それは最初にやってきた。その最中は気づきもしない。それ以後の旅は、思えば慰めだったのだろうか。  彼が最初に経験した旅は、ドイツ時代の家族とのものだった。グラスがまだ十五歳のころ、彼の父親が家族へプレゼントした旅行、はじめてのスイス。リギ山の展望台、様々な人種の集まる都市ジュネーブ、アルプスの夏に降る雪の見物、旅行者に親切な国民。観光の日々のあと、山里のホテルでの休養。ホテルの主人の息子と行った、岩場の洞窟探険。  ある時、父が案内したチューリッヒの郊外。そこで父は寂れた裏通りの先を指差す。期待していたグラスの緑の瞳には、灰色と土色の世界、古びたアパートが映った。欠けて丸くなった壁の煉瓦と、黒く錆びていたパイプの手すり。近づくと建物の前、ごみ捨て場からは柵を隔てたその場に、並んだ見覚えのある調度品どもがあった。食器棚、靴箱、テーブル、ベッド。彼の姉の折り畳み机も、弟の宝の木箱も、そして彼がドイツに残してきたはずの手製の本棚もあった。理解できず、しばらくその場に立ち尽くした。  旅行。いや、違う。何の断りも、知らせもない。  一家は移住を計画した父に反対し、自分の国に帰ろうとした。だがホテルのロビーで、父から家を手放したことを静かに告げられる。心から楽しんだ最初の旅行、思えばその費用ほどのゆとりが父にあるはずがなかった。国の貧しい知人の世話になる訳にもいかず、一家はチューリッヒに居つかざるを得なかった。  故郷を捨てた理由について、父親はただ黙り、家族の問いには答えなかった。そして家族中から憎まれた彼は家庭に居場所を失い、その時より独り別に住むことになる。  父から裏切られ、グラスは凄まじい喪失感に襲われた。彼は、別れさえ告げられずに奪い去られた諸々を思い起して泣いた――遊び仲間のベッカー、ルドルフ、近所のベッツ爺。父と母が経営するパン屋。暖かみのある甘くて芳ばしい香り。粉の匂いの安心感。小さくても良い店だった。いつの日か姉や弟と共に店を継ぎ、父と同じように、グラスは生まれた町から出ることなく生涯を過ごすものと信じていた。だが、そうはならなかった。  彼はイエズス会士となり、郷里どころか国を越えて務めのために旅をしている。あの時、グラスは喪失に悩んだ。だが今は神が運命を司られる以上、あの旅行は必要で正しい導きだったはずだと考えている。神は私を生かし、偉大な御計画を実現するための一つの駒としてお使いになられているのだろうと。私は存在していることを嬉しく思うと。私は全人類と共に導かれていることを、光栄に思うと。たとえ、私の望まぬことでも、導きならばそれで良いに違いないと。  グラスの頬を風が拭った。  車内には何人かがいた。  和やかに談話している中年の夫妻、旅行鞄の上でカードゲームに興ずる若い女性の二人組、髭の老人と青いリボンをつけた少女。見ていると、老人は鞄の中からひとつのりんごを取り出し、ナイフで皮を剥き始めた。それを対席の少女が嬉しそうに見ている。ある程度剥き終えると、老人は蜜の乗った果肉を少女の手の上に切り落とした。少女は床に浮く足をばたつかせ、おいしそうにそれを噛る。老人は少女に言った。 「いいかいルイーズ、りんごを残す食べ方を教えて上げよう。まず、ナイフで今のように皮を剥く。皮は切り離さずにな。そしたら食べる分だけ切り取って、あとの実は長く伸びた皮にくるんでしまう。こうすれば、鞄にしまっておけるだろ?」  知っている、グラスは口の前で指を組んでゆっくりと頷いた。私の祖母も同じことをしていたさ。そのおかげで鹿皮のバックは度々、十分過ぎるほどのべとべとな栄養を与えられた。 「おじいちゃんて物知りよね。それ、お友だちにも教えていい?」  受け継がれるのか……。グラスは笑い、そして黙った。  列車が減速する。駅は近い。グラスはトランクを持って立ち上がり、腕時計を見る。 「『前を見よ』」  早く駅で乗り換えを済まさなければならない。鈍重になどしていれば、夕方のトゥールーズ到着、それ以降の予定が崩れてしまうだろうから。 「菜園の土を摘んで、その様子を見ながら」  かの悪魔祓い師ローランスはその著書『もろき十字架は』に記している。それは「過程」、広く使われる言葉では「段階」という。  儀式の場にエクソシストが立ち入ってから儀式を完成させるまでの数時間、又は数日にかけて、一連の流れが神父を襲う。  まず始め、取り憑かれた者のいる部屋にエクソシストが入場すると同時に発生するのが第一段階『現存』である。これは周囲の雰囲気が異質化する現象だ。  立会い人たちはお互いに顔を見合わせ、部屋中を見回す。だが確かに存在するその原因の所在は見つからない。その『現存』に方向はなく、ただ「ある」のである。理性でその感覚を無視しようとしても、落ち付いた精神にまた『現存』が襲いかかるだけだ。その説明不可能の焦燥は強烈であり、他の超常現象さえ気に掛けなくなるほどだ。  儀式の開始からしばらくは、負者は被憑依者の人格を引き出しそれの影に隠れる。これが第ニ段階の『偽装』だ。負者は被憑依者の記憶や知識、性格や声を取り込みその人物を装うため非常に巧妙であり徹底している。  この段階で多くの立会人は悪魔祓いの必要性を疑問視することになる。被憑依者の素直で誠実な態度と比べ、厳しい命令を繰り返す悪魔祓い師に、誰もが反感を持つ。悪魔祓い師の目にも被憑依者は弱く映り、十字架を持つ手を震えさせる。  悪魔祓い師の祈りや問答によって『偽装』が破れ始めると、被憑依者の言動が徐々に乱暴になってくる。そして第三段階の『破局』が訪れる。『破局』とは取り憑く負者と被憑依者のバランスの『破局』である。もはや負者は被憑依者の声など使わない。暴力的で奇怪な本性を現し、悪魔祓い師や立会人を襲う。  皆は正常な五感を失い、発狂の過程を感じる。特に悪魔祓い師が強く攻められる。儀式を終えた悪魔祓い師の顔付きが儀式前と変わっているのは、力を入れて耐え過ぎるため、顔面の筋肉や毛細血管が千切れるからだ。  それほどの苦しみは、いずれグラスも経験するだろう。  だがこれで終わりではない。  第四段階は『声々』。耳鳴りのように何かしらの言語が飛び交う。だが急速に流れ去るため聞き取ることは困難である。  立会人たちはその余韻の意味を掴む前に次の声を与えられて困惑する。そして次第に声々と自分の思考との間に差を感じなくなり、祈りを行うことさえ出来なくなる。  第五段階の『衝突』の気配の前に、『声々』は掠れていく。 『衝突』では、悪魔祓い師は直接闇に触れる。相手は何かしらの名前のついた人格ではなく、「闇の働き」なのだ。神父側にも悪魔側にも盾のような身を防ぐものはなく、直接肌を擦らせて対話する。肌が擦り切れようが、泣き叫ぼうが、もはや逃げることは出来ず細いこの一本道を進むしかない。  自らの心を悪魔に擦り合わせて得た数々の言葉を元に悪魔を解き、そしてその闇の輪郭を明確にし、神父は最後の命令をする。 「被憑依者の元より去れ」  これが第六段階目『追放』。  以上で儀式は完成する。  トゥールーズのマタビオ駅は騒がしく、混雑していた。その壁際、人の流れの目にたたずむグラスは群衆を見て、何十度目かの溜め息をつく。先ほどよりも込み入りの具合が薄くなったとはいえ、人々の中から待ち合わせた相手は見つからない。仕方ない、群衆の中に踏み出すのを躊躇していたグラスだが、やむを得ず駅入り口の電話機を目指した。  トランクをしっかりと掴み、おぼつかない足取りの酔漢を避けた時、行き交う人々の間にどこか見覚えのある、小柄な初老の男を彼は見つけた。グラスは歩みを緩めて考えるが、その無用さに気づく。 「ローランス神父」  彼はその名を呼んだ。相手は片手を挙げてそれに答える。 「お久しぶりです、ローランス神父。お元気そうでなによりです」 「君も元気そうでよかった。さてグラス君、食事の用意があるんで早速だが移動しようか。自動車の迎えがある。忙しいぞ」  マタビオ駅を後に、二人は歩き出した。街の酒場や商店には駅以上に人が集まっている。モントルーよりも大きいトゥールーズの町並みを見回すグラスは、ガイドブックで見た建物を見つけ、ときめいた。 「さて」先を歩いていたローランスが指差す。あの車がそうだ。  歩道に半ば乗り上がった車に乗り込むと、運転席に中年の修道女がいるのが分かった。 「彼女はシスター・ジャンヌ」  ローランスが紹介した。 「シスター、初めまして。グラス・ラエリネックです」 「お目に掛かれて嬉しいわ、ラエリネック神父」  シート越しに握手をするとシスターは言った。 「では飛ばしますわよ。今頃は丁度良い具合にスープが出来ているはずですからね」  そのスープも冷めたはずだ。教会は都心より離れた場所にあった。司祭館の横にやっと車は停車する。グラスは疲れた笑顔で司祭や修道女たちの迎えを受け、その後、シスター・ジャンヌに部屋を案内された。 「食事の支度をしてますわ。ご用意が出来ましたら、食堂にいらして」  グラスを部屋に残して、シスターはドアを閉めた。  部屋は、一人で寝泊りするには広く思われた。机や棚の間に開いた大きな隔間。壁に掛けられた場違いに立派な絵画。小瓶に詰められた気分変え用のキャンディ。埃ひとつない窓の桟。先の人たちがわざわざ用意してくれた部屋なのだろう。グラスは鞄を横に置いて衿のホックを外し、ベッドに仰向けになった。  期待されているのか……。グラスはゆっくりと胸に溜めた息を吐いた。たいした人間でもない自分に、先の、あの迎えだ。ローランス神父に感謝しなくては。  部屋は静かだった。彼が大きく息を吸おうとすると、不快に、ベッド・スプリングが軋んで鳴った。  食堂のドアを開けると、すぐ目の前のテーブルで何人かの司祭が祈っていた。色黒の一人の司祭がテーブルから立ち、両手を広げて日々の糧の感謝をしていた。  彼らから離れた奥のテーブルの隅、ローランスとジャンヌが笑って手招きしている。グラスは祈りの邪魔にならないよう、後ろ手のドアノブを静かに引いた。 「遅れました。失礼します」  小声で謝るグラスにローランスは頭を横に振る。 「いいや。今日は彼らとは違うテーブルが好ましい。それは彼らも承知しているさ。今回は特別だ」 「特別」 「神は例外を用意して下さるものだ」  さて、とローランスは手のひらを揉む。君も腹が空いていることだろう。ローランスは近くに立つ前掛けの若いシスターに合図をする。 「給仕をお願いするよ」  テーブルで感謝の祈りを終えると、早速前菜のスープが運ばれた。隣に座ったジャンヌがワインのコルクを抜く。くぐもった音が食卓の上に響き、ワインがそれぞれに注がれる。 「再会と初会を祝して」乾杯。  冷えたワインが朝から何も入れていないグラスの縮こまった胃に流れ込む。 「到着したばかりで悪いが、今回の儀式について話させてもらおう。いいや、畏まらなくていい。食べながらでも聞いてくれよ。うまそうな前菜じゃないか」  グラスも配慮し、ザリガニの身の入った冷製のスープを飲んだ。グラスは食通ではなかったが、ザリガニがラングドックの名産であるとは知っている。 「私が司教から悪魔憑きの調査依頼を受けたのは今年77年七月。対象は、ここの隣の小教区に住む男の子だ。その子は去年の夏より特別な行動をするようになったらしく……」  給仕を務めるシスターが口を挟む。 「ファザー、私が皆さんのために一生懸命に作った食事の時に妙なお話しをなさらないでください。せっかくの料理がまずくでもなったら神様に申しわけありません」 「言ってなかったかね」 「なにをですか」 「いやいや、君が作ったんだ。どんなことがあろうと、美味いに違いないねえ」  そのシスターは一瞬動きを止めると、何も言わずに台所に向かった。 「今のが後のデザートに良く影響してくれればいいのですが」ジャンヌが口を押えて笑う。  グラスが話の続きを求めるとローランスは「ちょっと待ってくれ」とこぼれぬよう慎重に皿から口にスプーンを移す。スープを含んで、味わいに細かく震えて興奮した。  変わってない。ローランスのその『好食』ぶりにグラスが神学校での日々を見た時、話は始まった。 ■3  被憑依者の名前はシモン・カステロウ。十歳の少年。初等教育は終了間近だった。勉強よりも走り回って遊ぶことの方が好きで、特にたいした個性もない。習い事はピアノのみ。  彼の「異常な言動」が最初に確認されたのは去年の夏。テレビがアヴィニョンの演劇祭を報道した夕方。雨の日のことだ。  外から濡れて帰ってきたシモンをタオルで迎えた使用人は、うつむいた彼のひとりごとに気づく。使用人が心配して彼の手を取ると、指先から肘のあたりまでひどく冷たかったという。シモンは夕食を取らずにベッドに入り、その日からしばらく学校を休む。一家が心配して彼に構ったが、シモンは家族を無視し、ベッドの上でひとりつぶやく。  ニ週間続いたその終わり、シモンは突然ベッドから飛び起きると、傍らで呆然と見つめる母に向かって奇声を発した。  そしてシモンの急変。学校ではいつも笑顔を絶やさず友達も多かった彼は、無愛想になり友達を見縊っては笑うようになった。また自宅では深夜まで起きてひとりごとを続けた。  クリスマス。シモンは暖かいロウソクの火の下、貰った贈り物を暖炉に投げ込んだ。家族は急いで鉄串で寄せたが遅く、父プティジャンはシモンを打った。  その出来事から一ヵ月ほど後、段階を移るようにシモン・カステロウの異常は深刻化する。ポルトガル語や訳の分からない言葉、下品な言葉で叫ぶのは常時。通常の考えでは受け入れられない腕力で部屋中の家具を倒し、止めに入った家族にたびたび怪我をさせた。  また、ペットのカナリアを生きたまま挽肉器に掛けたこともあった。  カステロウ家はシモンを病院へと連れていく。医者や精神科医は何ヵ月にも渡ってシモンの異常を検査したが、確信を持って原因となる病名をあげることは出来なかった。  異常の始まりから一年。今年の7月、ある週の日曜の午後。シモンの祖父フランソワは教会の司祭にこの悩みを打ち明けた。  相談を受けたこの司祭は、人間の奇妙な行動についての心当たりを持っていた。遥か昔に存在した恐怖と、それを打ち消すための方法。イエス・キリストが使徒たちに最初に与えた力。今は廃れてしまった儀式について。司祭は区域を総轄するボルドロン司教に少年の事態を報告した。次の週、司教はその館に、教区唯一の悪魔祓い師、アンリ・ローランス神父を召喚し、調査を命ずる。  シスター・ジャンヌは人差し指の代わりにフォークを立てる。先には色よく焼けたニンニクのスライスが付いている。 「司教のムッシュ・ボルドロンは良い方です。エクソシズムに対してご理解がありますから。あの方はエクソシストを差別なさらずに、ローランス神父を主任司祭にお招きになりました。他のエクソシストの方々はそのほとんどが孤独で、無教区司祭である方も少なくないのです」  グラスが凝視する中、彼女はニンニクを口に運ぶ。 「私は恵まれている」  ローランスは深く頷いた。彼はグラスの神妙そうな顎の動きを見て、ナイフとフォークを置き、話に手振りを足した。 「シモン少年が本当に悪魔に憑かれているのかどうか、私の仕事はそれを調べる事から始まった。悪魔祓い儀典書には、『未知の言語を理解する』、『知る由もない事を知っている』、『超人的な体力を示す』、などといった場合が悪魔憑きの判定材料となるとある。私はシモン君に会ったが、確かに彼の行動は不可思議で、私もすぐにそれだと感じた。その確認のため、私は付き合いのあった権威ある神経科医や精神科医たちに少年の検査を依頼した。そして彼らから出た診断はこうだ。少年がポルトガル語を話すのは、自宅の近くに住むポルトガルからの出稼ぎ労働者たちが話す母国語を学習したため。精神異常者が拘束具を引きちぎるほどの怪力を発揮するのは過去に何度も報告されている。そして子どもの残酷さは知られた話……。だ、そうだ」  心地よくアルコールが回っているのか、動作を大きく、ローランスが拍手する。まぶたの裏の医者たちに。 「それでは被憑依者の症状は説明が付くことに」  そこで話は終わらない。グラスの言葉を手で遮り、ローランスは話を続ける。 「確かにそれらの症状は科学的なもので説明ができるという。だが、カステロウ家の話ではそれだけがシモン君の異常ではなく、私や医者には見せない行動があるといった。それは人の考えていることを見通しているように振る舞うことだそうだ。私はそれを調べるために何度もカステロウ家を訪問し、シモン君と対面したのだが、話のような出来事にはなかなかありつけなかった」  あの日、初老の神父ローランスは晴れた表情でカステロウ家に向かっていた。依頼された祓魔式の調査結果を告げに。  幾度の調査にも、その一家の一人息子シモン少年に陽性は浮かばず、今回の依頼は悪魔憑きではなく、身体的疾患、又は精神異常である可能性が高かった。ある神学者は、近代エクソシズム依頼の九割九分は病気や誤りであるといった。結構なことだ。今回もその類であろうと彼は判断し、せめてもの手助けとして、カステロウ家に知人の医者を紹介するつもりだった。  彼がカステロウ家を訪ねると、少年の祖父であるフランソワが迎えた。フランソワの顔には皺が増えているように思えた。  女の悲鳴がしたのはその時だ。ローランスとフランソワは顔を向けた。ニ階。悲鳴はそこからだ。  ふたりはホールの階段を駆け上がった。戸の開いた少年の部屋ではシモンが学習机の前に倒れて激しく痙攣している。その横で、母のエリザはなす術なくおびえる。彼女を退け、ローランスは痙攣する少年の胸のボタンを引きちぎって衣服を緩め、そして寝台に寝かせた。エリザの啜り泣く声が背後で聞こえる。徐々にシモンの発作は弱くなり、そして静かに治まった。 「神父さま、シモンを頼みます」  フランソワはエリザを部屋の外に連れて出ていった。ローランスはハンカチでシモンの口の廻りについた唾液や泡を拭き取ると、床に座り、安静した少年の眠る寝台に背を寄り掛けた。突然の出来事に乱れた息を整えようと、ローランスは目を閉じて集中した。深く吸い……深く吐き……、意識して呼吸を繰り返すと、老いたローランスの心も、落ち着いた。彼はもう一度少年の安静を確認し、部屋を後にしようとよろめきながら立ち上がった。  その時、  ローランスは気づいた。目を大きく開き、息を呑んだ。部屋中に『声』が響いている。低音や高音が何事かをつぶやいている。音はわかる。だが何を言っているのかは全くわからない。まるで隣の部屋で様々な人間が激しく討論でもしているかのような、チューナーの壊れたラジオが噺と共にノイズを流すような、聞き取りの難しい何かが部屋中に充満していた。  笑い、憤怒、歓喜、諭し、悲鳴。  耳で聞いているのかさえはっきりとしない。  急に動けばこの『声』を見失うのではないか、そう思ったローランスはゆっくりと頚をまわした。開いたドアや天井、部屋中から『声』が湧き出しているのがわかった。部屋の四隅から、ポスターの裏から、ピアノの影から、棚の奥から、壁の繋ぎ目から。聞こうとするよりも、それに構わぬようにする方が聞こえやすいように思える。  混沌とした声々。  注意を向けているうちに、ローランスはその中のひとつが自分に呼び掛けていることに気づいた。その『声』の前に他の響きは徐々に静まる。ふと、何かの変化を感じて彼は寝台を見た。ローランスは再び息を呑んだ。  寝台の上のシモンが上半身を起している。顔は真青だ。 「司祭」シモンの胸の辺りから、唸るような低い『声』がした。 「きさまのその古傷、疼かぬか」  ローランスは叫ぶ。 「何者だ!」 「司祭、僕は心配に思う。きさまが、その汚れた服の下の、その傷を、忘れたわけではあるまいか、と」  ローランスは震えた。口の中がからからに干上がった。すでに克服したはずの忘れかけていた恐怖が急速に甦った。エクソシストにしかわからぬ苦しみ、苦悩の日々。うたた寝にさえ現われる悪夢。物陰から聞える、絶対に忘れることが出来ない荒々しい獣の息遣い。それらを直視しないことによって保っている危うい私格。人には見せれぬ、闇の脅しに怯える自分。ローランスは後悔した。再び悪魔に関わってしまった事を。彼の目には涙が溢れた。  彼は聞いた。 「司祭、僕らの妨害をする気なら、崩れず保ったその生命、どうなるのか、この世の誰にもわからぬぞ」  ローランスはざらついた舌で言った。かすれた声が出た。 「おまえが、シモン・カステロウを、苦しめているのか」 「司祭、僕は楽園にいる。司祭、きさまは今すぐここから去らなければならない」  ローランスは目を閉じた。少年の中に私の相手がいる。確信できる! 私は逃げ去れない……そう、エクソシズムが必要だ。だが少年は病気ではなく悪魔憑きであると、司教を納得させる証拠がいる。教会や司教の、許可と力添えなしでは、エクソシズムは行なえない。それで行なえば必ず失敗する。例も知っている。  神の御加護があれば、相手が襲ってくることはない。ローランスは自分に言い聞かせて目を開けた。 「なあシモン君、君が私に隠してある、とっておきの、力を見せてくれないかね」  ローランスの右手は十字架のネックレスを探る。 「司祭、きさまの思考がばれているのは、きさまがよく知っている。去れ」 「ほお、感心したよ、シモン君。やはり、君は私の心が読めるらしい」 「司祭、きさまが妨害さえしなければ、きさまは、苦悩に合わずに済むのだぞ。恐れがあるなら、今すぐに、去れ」 「おそれ……、おそれとはこの事か」  ローランスは鞄から聖水瓶を取り出してシモンの横に置いた。シモンは身を引きベッドの柵を掴み、剥き出した目で脇におかれた小瓶を凝視する。ローランスはピアノの上にあったレコーダーの録音スイッチを入れた。彼は考えた。『声』が聖水に気を取られている今なら可能だ。相手の読心術を抑え、少年が精神病でない事と憑依とを裏付ける。 「君が私の問いに答えてくれたなら、もう帰ろう」 「きさま、何をたくらんで、いる」 「やはり聖水が気になってならないようだ。さあ今から質問に答えてもらおうか。君は、シモン・カステロウであるのか……」 「そうだ」 「偽るか? 神の御手がお前を裂くぞ」 「ちがう。我の監護主は我々だ」 「昔よく聞いた言葉だ。つまりは、悪霊か」  シモンは聖水を凝視して言う。 「そう言う者も、いる」 「ではその証拠をあらわせ。おまえがシモン少年であれば、洗礼の恩寵を保つため、告解をしなければならないぞ」  シモンは必死で司祭を睨む。ローランスもそれに睨み返した。少年の目元の何本もの深い皺、老人のようだとローランスは思った。その皺だけではなく、シモンの小柄な身体、曲った背筋、痩せこけた首筋、干ばつの大地を思わせる手の甲、枯れ枝のような指……、老人だ。しゃがれた声で何かをつぶやく少年……。そう、あれは以前の大戦中、家族を失い自由のきかぬ身体で死を待ちのぞむ老人たち。自国の兵士に、自分を殺してくれと縋りついていたあの老婆……。  気味の悪さからローランスは目をそらしそうになったが、何とか堪えた。 「先月、シモン少年が神経科医に掛かった時、お前は医者に自分の存在を知らせたのか」 「表明してやった」 「悪霊よ、知らせた訳を言いなさい」 「早ければ早いだけいい。知れば奴らは多重人格か、ただの妄想なのだと結論する。そうすれば……奴らにそう診断させれば、きさまらに会わずに済んだ。安全な場所に行くことが出来たのだ!」 「ならば」ローランスは軽く咳をして続けた。「悪霊、いま私と対話しているこの君は、自分は悪魔に憑かれたというのかな?」  横目で聖水を捉えながらシモンは嘲った。 「司祭、きさまは愚者にして滑稽。我は知恵の霊。被治者の名前は無知なるシモン!」  ……少年の声。だがこれは憑依妄想ではない発言だ。いや、司教は入り組んだ憑依妄想と見るか? 被憑依者としてではなく、取り憑く側としての人格を。 「司祭、司祭。きさまは知らないのだ我らの力。ゆえに愚かな問いを投げ放った」  ……別の、二重人格として見られた時はどうする?   煽ってみるか、ローランスは言った。 「君の弱さは知っている。無力な少年にしか取り憑けないほどだ」 「なるほど、か司祭! 光りに失明した司祭よ! お前の口には! 焦げ肉が押込まれ! お前の鼻は! 油の海にもがき苦しむ!」  相手の大声にローランスは身構えた。 「司祭、きさま、我々の知識を侮るな――私たちの力は永遠――見ろ。見れ。そして知れ」  強ばった体に大音響が突然襲い掛かったのでローランスは恐怖で気を失いそうになった。目の前でベッドが暴れる。いや、その上の少年が激しく痙攣しているのだ。ローランスは繰り返し気を失いそうになったが、それを免れ、次に起こる現象に警戒した。シモンの怪我を防ぐために今すぐ為すべきことなど考える余裕もない!   だがシモンの痙攣の他は何も起こらなかった。周囲の様子も変化はなく、ベッドが床を蹴る音の他には何も聞こえない。悪霊が力を見せつけるというのに少年の発作だけで済むなど考えられなかった。何かが起るはずだ。胸の十字架をローランスは強く握り締めた。 「なんだこれは」  不意に声がした。祖父のフランソワだ。途端にベッドが静まる。 「ローランス神父さま、今のは、なにです。今のは、悪魔の仕業ですか」 「フランソワさん、短絡は、禁物ですな」  緊張でまだ頬が硬かった。背中が縮こまったままだ。ローランスはベッドに近づいた。シモンは痙攣から落ちついて寝ている。『声』はどこへ行ったのか……。  呆然と尽くす老人の横を通り、ローランスはピアノの上のレコーダーから音声テープを取り出した。司教に提出するには未完全だが、この選択しかなかろう。 「シモン君、もうしばらく、待っていなさい」  見れば寝台の上のシモンの頭から、大量の汗がシーツに滴っていた。  テーブルに運ばれたクレープ。  ココアスポンジを包んだそれにうっすらと振るわれた粉砂糖は、濃淡に積もっては枯葉の姿を浮べている。軽くナイフを当てれば、内に孕んだいちごの香りがその存在を現わし、冷えたガナッシュクリームはスポンジを溶かしながら口内に広がる。はかなくも美しい物語を奏でる、フランボワーズといちごの微妙なる調和……云々。この『カトリーヌのいちごクレープ』を一口食べたなら、誰でもこのデザートに夢中になるはず。噂が人から人へ広がって、どこぞのレストランが台所を偵察に来るかもしれない!   けれども。  スイスからのラエリネック神父はローランス神父の話に集中し、最後の料理には手を付けていない。普段は料理に目が無いローランス神父でさえ、食事中であることを忘れたかのように全くの無視。なおかつシスター・ジャンヌは何かの癖か、主菜の時に使ったフォークをもって皿の上の喜びを崩しに掛かる。 「魅力がないのかしら?」  料理を作る事を趣味としていた給仕係のシスターは、それを見て小さく頚を傾げる。  彼女の些細な疑問を含んだ視線。  グラスはそれには気づかず、腹でも立てているような真剣な横顔で対席のローランスに言った。 「被憑依者の症状から、多重人格と悪魔憑きとを見分けた手段は?」 「音声テープに記録があった、証拠となる。同時に入っていたベッドの振動音からして、悪霊が力を見せつけようとした時だな。使用していたレコーダーにはラジオの受信装置はついていなかった。だがなぜか、その時放送されていたプログラムが録音されていたんだ。時刻も日にちもばっちりとな。多重人格者にこんな事、できるはずがないだろう」  真剣な目つきの先輩司祭の話に、グラス・ラエリネックは閉口した。  ローランスは儀式協力者たちの始めての顔合わせが明日あると告げる。夕食会は解散となった。  グラスは部屋に戻ろうとした。すると待ち構えていたのか二人の司祭がテーブルから立ち上がる。片方の司祭が言う。 「ラエリネック神父、お話を。よろしいですかな」 「君ら」  片付けをしているシスターたちのうしろでローランスが手を打ち鳴らす。 「ラエリネック神父は旅で疲れている。悪いが部屋に通してくれ」  二人の司祭はローランスを見た。軽しめた目つきだった。 「ああそのようですね。気づかなかった。お許し願いたい」  司祭たちは元の席に戻り、何か小声で話す。 「旅と言えるものでもありません。私は平気ですが」 「いいや、気にしなくていい。今日は早めに休みなさい。明日は明日で忙しいぞ」 ■4 「ようこそいらっしゃいました。私はフランソワ・カステロウです」  車を降りた途端にグラスは握手を求められた。  相手は、サングラスを掛けた老人。 「イエズス会のグラス・ラエリネック。大事なお孫さんに纏う憂いの苦痛、ご不幸なことです」  短い商店通りに面した場所に、褐色の外壁のカステロウ家の屋敷はあった。トゥールーズのマタビオ駅からはどの方角にどれほど離れた場所なのか、グラスにはわからない。立ち並ぶ街路樹の間から、あまり高くは上がっていない太陽が見える。屋敷の白枠の窓の内に束ねられたカーテンは明るい青色に統一されていたが、二階のひとつの窓だけが暗い色のカーテンで塞がれていた。  ローランスは大きく腕を振り何かを言って脇の車を発進させた。 「神父さまご紹介のアンリという方はもういらしてます。さあ、中で何か飲物でもどうぞ」 「そうさせてもらいましょうか。最近は立っているだけで辛い」 「お互い様でございますな」  二人は笑うこともしない。  戸のなかには何らかの甘い匂いが漂っていた。グラスが帽子を手に取ってホールを見回すと、「カステロウ家は資産家として地域に通っている。シモン少年の事件以来、使用人はいないが」とローランスが説明した。  ホール正面に据えられた台座の上の、教会に置いてもおかしくない立派な聖母像に見下ろされて、グラスとローランスはフランソワに上着を預けて廊下を進んだ。  グラスたちが案内された部屋にはすでに先客があった。アイロンのよく掛かったシャツの男が、新しい客を見て籐の長椅子から立ち上がった。 「ああ神父さまこんにちは。ご機嫌はいかがでしょう」 「泣きたい気分だ」  彼はローランスの手を取る。 「おや、そちらのお若い神父さまはローランス神父さまのお話しになっていた、あのラエリネック神父さまで? はじめまして、アンリ・ミショー、薬剤師です」  グラスは彼と握手する。  部屋の奥から出てきた、白く身の細いセーターの女性。彼女は被憑依者である少年の母親だという。  金の短い髪を耳にかけて、彼女が挨拶する。  グラスは握手のために力を緩めて彼女に手を差し出したが、脇に立つアンリが勘違いし、目を大きく開けてその手を掴んで振る。 「エリザです」  疲れた顔で小さく笑って、彼女は神父たちを椅子に勧めた。  アンリは勢いよく腰掛け、その弾力に身体を上下させると機嫌良さそうにグラスに尋ねた。 「ラエリネック神父さまはこちらの教会にご赴任で?」 「いいや、私はモントルーのイエズス会士です。今回は儀式補佐のために」 「ああモントルー。知ってます。あそこではシヨン城がすばらしい。城の窓からレマン湖を眺めると、やさしい風が顔に吹きつける。湖は限りなく広く、太陽は水面に反射して湖いっぱいに溢れ、彼方には雄大な山脈が続いているのが見える。気品と歴史あるシヨン城には人間の余計な造形などまったく必要ありません。広大な庭、日の装飾、白い城壁。思わず心奪われる城からの風景は、自然すべてが城の一部であるかのように錯覚させ……。あ、いえ、私は行ったことはないのですが」  アンリは手に持つカフェオレを啜った。  サングラスのフランソワは顎を撫でていた手で指差し、エリザに言う。 「そうだ君、神父さまにも飲み物を出してくれるかな」 「はい。いま」  テーブルの上に薄い湯気を立たせ、陶磁器の白いポットがカップにゆっくりと傾く。ローランスの後、少年の母は静かにグラスの前にカップを差し出した。陶磁器と揃いであるかのような美しいその手がカップからポットを引いたとき、セーターの袖口からのぞいた白い手首に、くっきりと浮んだ青あざが見えた。見ぬ振りしてグラスは他へ視線を逸らす。  ローランスは漂った甘い香りをやさしく目を細めて匂った。一口飲んで納得したのか、グラスにも勧め、そして言った。 「アンリ君も今回は貢献してくれる」  アンリが言う。 「でも、僕自信は直接には御儀式には参加しないんですよ。ただ、怪我人の手当てを担当します。なんていったって当方、薬剤師ですから」  彼が笑うと、それと同時にホールの方で来客を告げるベルが鳴った。 「きっとペテール先生でしょう」  フランソワは頭を掻きながら部屋を出る。  かまわずアンリは話し続けた。 「最初、ローランス神父さまから用事を頼まれたときは何事かと思いましたが、それが悪魔祓いのお手伝いだったなんて知って驚きましたよ。でも、おかげでかわいい奥さんもとお友だちになれましたし、御儀式自体、今後の話題には十分で……」  アンリは一人で笑った。そしてまた何か言い掛けた時、フランソワが女性を連れて戻った。 「ごめんなさい。団体の会議に時間が掛かり、皆さんにご迷惑をお掛けしました」 「お忙しい所ありがとうございます、ペテール先生」  着馴れたスーツ、長く艶やかな髪を後ろに流し、顎を引いて皆を見据える彼女。何の先生かは知らないが、そう呼ばれるには若い。グラスはそう思った。  アンリが素早くペテールに寄る。 「ああ、ペテール先生、始めまして。わたくし、アンリ・ミショーという、薬局を経営している者です。それにしても……ペテール先生が女性、しかも相当な美人だったとは知りませんでした。明るい笑顔、流れる髪、知的な眼差し、アスパラガスのようにしなやかな指には、なんと誓いの指輪がはめられていない! そのお美しさをご自身がお気づきでないとしたら、全くもってもったいないこと。一度ぜひ、ご一緒にお食事でもいかがでしょうか」 「私は」  言いかけて黙り、馴々しい男を横目で睨んでペテールが続ける。 「とんだお気取り男ね。アンリさんとおっしゃいましたね? 外面ではなく、人の心の内に注目して日々をお送りになられる方をお勧めしますわ」  ペテールはローランスに向いた。ペテールの後ろでは気取る男が肩をすくめる。 「グラス君、彼女はバプテスト派のペテール牧師だ」  ローランスの影から出たグラスを見て、ペテールの目が大きく開く。 「なにか?」  ペテールはバックを持ち替え、慎重に、落ちついて答えた。 「昨日、モントルー駅であなたとお会いしました。お覚えです? あなた、立ち去られる時、私の画用紙をトランクで引っ掛けて行かれたのですよ?!」 「失礼」  反射的にグラスは謝罪するが、その顔は話を理解した風でもない。  ぺテールは上半身を膨らませた息をゆっくりと抜いていく。 「はじめまして、ラエリネック神父。トワネット・ペテールです。少年のことは市民団体で一緒に働いていたフランソワさんから伺い、ローランス神父に無理をいって今回参加させて頂きます。儀式には牧師としてではなくカステロウ一家と面識のある一私人として参加することになっておりますので、カトリックの儀式には全面従います。ご安心下さい。これは、メモにでもお控え下さい」  グラスは自分よりも若いであろう牧師の顔をまじまじと見つめる。それが気にいらなかったのか、ペテールはグラスを睨んだ。 「神父、ご不満ですか? そのお顔。当然、カトリックと比べれば規模も歴史もない新教会のバプテストですが、カトリックでは薄れた自覚的信仰があります。それとも私が人生経験の少ない者であるということでのお見下しでしたら、その偏見を変えて差し上げますが」 「いいや。結構。失礼」  グラスは断ると、さりげなく自分の顔に触れた。内心は関心していたのだが……。ペテールの肩越しに、アンリが声を出さずに何か言う。 (気の強い女性ですね)  彼の仕草がそう言った。 (私の好みですよ) 「集まったなら、我らの主へ、成功の祈りをするとしよう。忙しいぞ」  ローランスは頭上を指差す。 「ニ階の、少年の部屋へ」  シモン少年の異常がはじめて確認された去年の七月当時から、少年は一日のうちの大半をベッドで過ごすようになった。  珍しく少年がよろめきながらも自分の足でベッドを離れるときは家族中が警戒した。彼は物を傷つけ、汚すことしかしなかったからだ。  彼は自分の意志で生活することができなかった。生きるために必要な食事は家族が口まで運んだ。汚れた体はタオルできれいに拭かれた。少年は手洗いにも行こうとしないため、当初はシーツに多数の排泄の後があった。今はおしめを付けられ、シーツも頻繁に取り替えられており衛生的だが、それは見た目だけで、ベッドの周囲には不快な臭いが漂っている。  シモンはいつもベッドから窓の外を眺めて一人で何かを呟いていた。  少年の母親のエリザはシモンの横で息子の回復を聖母に祈ることを日課としていたが、祈りが始まると、シモンは子どもとは思えぬ力で彼女の元は長かった髪を掴んで引いた。そのためにエリザは最後まで祈りを唱えることができなかった。  だが、その厄介なシモンを抱えるカステロウ家にも一つだけ平安の時があった。祖父のフランソワがテラスでうたた寝をし、母親のエリザが安心して買い物に出掛け、父親のプティジャンが勤め先で家庭を気にせず座席設計に専念できる休息の時、それはシモンが眠りについている間だ。シモンは昼も夜も寝ずに窓から外を眺めたが、時折、蓄積した疲れを癒すためであろう、ニ日三日にもまたがる長時間の睡眠を取っていた。  そしてシモンは今、深い眠りに入っている。この日初めてカステロウ家を訪れたグラスとアンリは想像以上にひどい少年の姿を見て、驚きの声を上げた。 「これは」  アンリが呻く。  被憑依者である少年の、皺の寄った目元にこびりついている黄色い目やにの塊。あぶらぎって吹き出物だらけの額や頬。流れ出た鼻汁。「奥深くには悪魔が……るぞ……」、呪いをつぶやく腫れあがった唇。細かく震える顎。手足や頚の所々の青あざ。今、寝台の横に立ったエリザが少年の髪の毛に指を縺らせながら、彼をきれいな寝間着に着替えさせている。グラスは顔を上げた。寝台の横、学習机の上の、幾輪かの飾られた花が目に止まった。  ローランスが言う。 「シモン・カステロウのエクソシズム。執行場所は少年の自宅。執行日は十日後の二十八日の月曜から数日を見積もる」 「数日ですか? やはり」ペテールが数度うなずく。「それは『悪魔祓い儀典書』に従った進行では困難ということですね? 過去に行なわれたカトリック教会式の悪魔祓いの報告には大抵そのように記されていました」 「熱心だ、牧師。悪魔祓いという儀式は他の儀式とは違い、計画の立たない儀式。たとえ儀典書があろうとも、悪魔側の妨害でその通りには進まない。実際のエクソシズムはただ動作や言葉を決められているままに行うのではなく、発生した出来事に随時機転を利かせて対処していくものだ。ゆえに場合によっては予想よりも多くの時間を浪費することになるし、わずかな祈りを捧げただけで完了することもある」 「わからないなあ、悪魔祓いって」  シモンから目を背けてアンリが言った。 「当然、詳しくは後に教える。まず今は皆で祈ることだ」  彼が祈りのために手を組むと、全員がそれにならった。 「天にまします我らの父よ、あなたの尊き御子イエズスの御名において、悪魔悪霊に囚われたこのいたいけな子どものために、私は尊き御座におもむきます。あなたの御子が、ご自身のなかにこれら弱き者たちのすべてをお引き受け下さったことに、そして御子の鞭により我々が癒されることに感謝いたします。御子のお力により、この哀れなる子どもを救いたまえ」  儀式進行の概略、憑依者の召喚、格闘、憑依者の明確な印象の獲得、追放。各段階の特徴と意味とをローランスが皆に教え終わる頃には空はもう夕陽に染まり、ひとつ大きな星が現われていた。 「では明日、またお願い致します」  軒先でフランソワが丁寧に一人ひとりの手を取って挨拶している。すると開け放った門から、一台のオープンカーが入ってきた。 「帰って来ました」  サングラスの奥で、フランソワの目が憂う。  駐車した車から風に柔らかい金の巻毛の男が降り、肘でドアを閉める。手に持った裸の書類にばかり注意を向ける遅い足の彼に、かろやかにエリザが歩み寄った。彼は気づいてエリザの額に品よく唇を当てる。書類を脇に抱えてエリザの手を優しく持ち上げて引き、彼は穏やかそうな顔で挨拶に寄る。 「お世話になります。彼女の夫の、プティジャンです」  一度エリザと顔を見合わせ、仲が良さそうに笑う。 「子どもの事はお任せします。ご入用の物は全て揃えさせます。人手でも資金でも」  彼は親愛を込め、皆と両手で握手する。そして笑顔を見せ、書類を預かったエリザとともに屋敷に入る。  フランソワは戸の内に言った。 「プティジャン! 車で神父さまたちをお送りしてくれないだろうか……」  途中で何かを思い出したらしく、フランソワはため息を吐く。 「……水曜か。邪魔しない約束だったな。彼女とじっくりクロスワードパズルでも楽しむといい」  フランソワが皆に向く。 「あれは奇妙な子ですよ。目が猫のようだ」 「いいえ、紳士的ですわ。とても奥さまを愛してらっしゃる様で」  ペテールの感想を聞いて、フランソワが何か考えをつぶやきながら再び戸の内をのぞく。振り返って言った。 「かわりに私が車でお送りいたします」 「いいや。氏よ、気にせず」  ローランスの声色を聞き、グラスにもわからぬ何かを察したアンリが言う。 「まあよろしければ、皆さんこれから食事にでも参りましょう。フランソワさん、どこかお薦めのレストランまで送って下さい。ああ、はい。待ってますから」  車庫からの車が手前に止まると、ローランスは先に助手席に着いた。  またしても何かに気づき、勘のいいアンリは素早く行動に出た。  にやにやと笑うアンリに勧められてペテールは開けられたドアを潜った。人数には狭い車だった。次にアンリが隣に座ろうとするのを察すると、ペテールは神父が先だとグラスを指差した。最後にアンリが乗るのを確認して、フランソワは車を走らせた。 「ローランス神父さまが助手席で、薬屋なんかの私が上席に近いなんて、何だか気が引けるなあ」  つまらなそうにアンリが言う。 「構わんさ」ローランスはフランソワと親しげにシャンパンの話をしている。 「まったく。エリザさんはご家庭でご主人と一緒。楽しいでしょうねえ」  しばらくの後、頬杖を突いて大通りの対向車を見ていたアンリが、突然グラスに向いた。 「そうそう、ラエリネック神父さま」  にやついて言う。嫌な予感がし、グラスは時計をいじくる動作をした。 「トゥールーズでは風邪が流行していましてね、私も先週まで寝込んでいまして、実は。喉頭がやられて声が嗄れちゃいまして、大好きなおしゃべりが出来ないし、頭は殴られたみたいにくらくらだし、本当に苦しいもんです。しかも、普通のかぜの百倍、いや千倍は凶悪で強烈で残忍なインフルエンザの時期も近づいています」  アンリはグラスの鼻先を威圧的に指差す。 「インフルエンザを馬鹿にしちゃいけませんよ神父さま。私の友人なんてインフルエンザの悪化で、難聴になってしまいましてね……」ああ、こわいこわい。彼は背筋を震わせた。  アンリはどこからか取り出したメモに走り書きで何かを書く。そして囁く。 「……神父さまがトゥールーズ御滞在中にもしも――はい、それはもちろん当然何にもないに越したことはありませんよ――でも、もしも、万が一、何かありましたら。ええ医者なんかの処方箋などは要りません。私奴にご用命下さい。連絡先はこちらです。悪いようにはいたしませんから、はい……」  ペテールが怪訝そうに見ているのがグラスの目の隅に入った。グラスは呆れながらも、にやにやと笑うアンリからその紙切れを受取って、見もせずコートのポケットに突っ込む。 ■5  悪魔祓いの準備は次の日から始まった。  儀式を行う場所としてローランスが選んだのは、カステロウ家ニ階の物置きとして使われている部屋。  ローランスが前日に挙げた理由は、「一に、被憑依者である少年に馴染みがあり不要なストレスを防ぐ事ができる。二に、憑依の原因が被憑依者の身近にある可能性がある」というためだ。  だが、どれほど適した場所であってもそこは物置き部屋だ。ローランスの指示を受け、グラス達は部屋の物を全て廊下へと運び出す。  仕事を終えて、アンリがぐったりと廊下に座り込む。最後に全員で運んだガラス戸付の本棚がこたえたらしい。本棚は部屋のドア枠よりも背が高かったため、廊下へと出す時は傾けて運ばなければならなかった。その傾けた本棚の重心が、アンリの肩に重く掛かったようだ。 「……だから私は、中の書籍は別にして運んだ方がいいと言ったのに」  ペテールの言葉にグラスは頷きながら、未だ痺れて血の気の引いたままの白い手を揉んだ。手伝いは男性の方がよかった。同権主義者というのは気難しい。  エリザが盆を持ち、家具で狭くなった通路を抜けて来た。 「ご休憩になさいません?」  盆の上のポットと焼きたての一口菓子の匂いを嗅いで、アンリはよろめきながら立ち上がる。  エリザは部屋の中を覗いた。 「あら、このお部屋、思っていたよりも広かったのですね」 「見晴らしは良くなった」  ローランスが年代物のミシン台に寄り掛かってお茶を飲む。  アンリが言った。 「まったく物が多過ぎる。皆さんもそうお思いでしょ? 使わない物をこんなに置いておいても無駄だとは思わないのかな、フランソワさんは」  用具の買出しでその場にいない彼をアンリは愚痴る。 「もったいない、もったいない。この机なんかは名高い北欧製だ。しっかりした造りだから道具屋に持っていけば喜ばれるだろうに」  アンリのたわいない話と茶と菓子に、一同は和んだ。しばらくの休憩の後、ローランスは窓に木の板を打ちつけるよう、グラスに指示した。そして埃を払った椅子の上で、暖かさと、満腹感と、穏やかな時間の流れと、そして体の疲れで、ふと、神父は眠気を覚える。  疲れ……。  今まで彼は、儀式の最中に見た不快な出来事を何度も同僚たちに話してきた。だが彼らはただ笑った。 「君は疲れているようだ」  ローランスは機会ごとに高名な司教や肉親たちを尋ねて自らの不安を訴えたが、彼らは妙な顔をし、時には先の同僚たちのように冗談話にした。退室の後、彼が部屋の前でその笑い声を聞き、泣いているとも知らずにだ。  共有してもらいたい感情が伝わることはなかった。いま昔を思い起し、あれは仕方のないことだったとローランスは思う。経験のない者にとって悪魔祓いとは、想像も理解も出来ないただの伝説。相手が味わったことがない感情は、どんな言語を用いても伝わるはずがない。根本が違う。彼らとは魂の質が変わってしまったのだ。彼らに罪を着せぬ言い訳、彼らを恨まぬ言い訳はいくらでも考えられた。だが、どうしようもなく、やるせなかった。 「なぜ窓を封じるのですか」  閉まり掛けたまぶたのローランスに、ペテールが問うた。ローランスは気づき、うつむいていた頭を上げ、そして何も言わないまま窓を見た。  ローランスは思う。自分自身、嘘のように思える記憶……、突然床に降りる霜、被憑依者の吐く腐敗臭、突然出現し手足にまとわりつく植物の蔓、人を窓へと吹き飛ばす風。数多の怪奇現象と何重もの幻覚、立会人の発狂、圧倒的な存在。世のエクソシストすべてが感じるという儀式後の脱力感や自殺願望からローランスが立直って数年が経つ。立直ってからは、何かの切掛けでもなければそれを思い起すことはなくなった。  不思議そうな顔して覗き込んでいたペテールに、ローランスは歯を見せて笑った。 「窓に板を打ち付ける理由は特にない。ただ、念のためさ」  ローランスは部屋を見回す。  変哲もないこの部屋で、いずれエクソシズムが始まるのだろう。儀式中、恐怖や混乱のために何人が気を狂わすだろうか? 自分の身体に爪立て掻き毟り血を流し、何人がこの床や白い壁に身をぶつけるだろうか? 抑えつける他の者を振りほどき、恐怖から逃げるために、何人がドアやあの窓の外に向かって駆け出すだろうか? いや、その時すでに隣の者を抑えられるほどの理性が、この部屋に残っているのだろうか。  この部屋は、明かり採りにも不十分なほどに窓が小さい。それも、この部屋を選んだ理由の一つだった。  黙々と釘を打つグラスを見ながら、アンリが楽しそうに言う。 「嵐の前の準備さながらですね」  前回ローランスの執行したマンション上階でのエクソシズム。立合人の技術者の一人が窓から転落した。 「嵐か」  合板が完全に窓を塞ぐまで、ローランスは外の光を見つめ続けた。  ――十日。  エクソシズムを明日に迎えた夜、寝台の上で普段よりも早くグラスは横になっていた。何度も寝返りをうち数々の思いを打ち払おうとしたが結局寝付けず、起き上がって枕元の照明をつけた。外していた腕時計を見ると、もう午前を回っていた。  時間を無駄に過ごしているのが気になった。グラスは読みかけの小説を思い出し、トランクを引き寄せた。しおりの位置は列車の中から変わっていない。トゥールーズでの務めの合間に読もうとしていた小説だが、これではエルズナー神父に預けておいた方が良かった。  十日。準備の日々はまさしく急速に流れ去った。彼は頭をかきながら卓上のカレンダーをしばらくぼんやりと眺めていたが、ドアがノックされたので返事をした。 「グラス君、まだ寝てないようだな」  ローランスの声。 「いま開けます」  部屋に入り、ローランスは言った。 「私もなかなか眠れない」  持ってきた瓶をグラスに見せる。粕ブランデーとコップ二つ。 「付き合ってくれ」  二人は並んでベッドに座り、話しもせずに長い間ブランデーを飲んでいた。だがその内、お互いに昔を懐かしがっては静かに話し始めた。今まで悪魔祓いなどというつまらぬ儀式の準備に追われ続け、五年ぶりの対面だというのに、ゆっくり話もできなかったのだ。  一言ずつの言葉のやり取りと、その往復の、その時間。ふたりは友だ、急ぐ必要はない、口数もいらない。言葉と言葉の間の静けさが不思議に心地よい。徐々にまばたきの間隔が変わっていき、ともなって時の流れもまた緩やかになっていく。そして永いまばたきは、瞬く間も長い時へと変えてしまう。  ……グラスが聖職者になったのは、ローランスに誘発されてのことだった。  スイスに移った当初のグラスは何に対しても情熱を起さず、毎日を無気力に過ごしているだけだった。そんな彼を見かねた姉は、ある日グラスを講演会へと連れて行く。講師はフランスから来ていたローランス神父だった。若者の意欲、過ぎてから気づく若さの美しさ。講演後、帰宅の準備をする神父に面会した姉は、近くのカフェで神父をグラスに会わせる機会を得る。神父は講演内容を掘り下げてグラスに熱く語った後、聖書の言葉を引用して彼を励ました。 『あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである』 「そんなこともあった」ブランデーを飲みながらローランスが言った。 『あなたがたの会った試練で……』  コップに目を落し、グラスは心の中で繰り返す。今まで福音書のその箇所を忠言としてグラスは生きてきた。人の嫌がる仕事を快く引受け、信徒の抱える苦悩を共有してやり、自分を頼る人の期待を裏切らずに。使命に熱中するその姿を見て、信徒の一部は、あたまが「透明」だと言った。かまわない。それが自分に与えられた試練であり、のがれる道であると考え、笑ってきた。  そして、自分に希望を与えてくれた恩師の役に立てる時が来た。微かな酔いとともに、グラスはある種の満足感を感じていた。青い。彼は自分を笑った。  ローランス神父はエクソシストだ。その神父を補佐するために彼はトゥールーズに来た。神は機会を与えてくれる。もう二度と悪魔祓いをつまらない儀式だとは言わない。 「ローランスさんの著作『もろき十字架は』、何度読んだことでしょうか」 「そうか」  しばらくの沈黙の後、ローランスが言った。 「君は助手司祭であり、また準エクソシストでもある。もし、私が悪魔祓いの最中に、儀式を続行できない事態に陥ったときは、君がだぞ、儀式を受継いでくれ。儀式に邪魔なら私を黙らせてもかまわない。我々は必ず勝利しなければならない……」 「どうしました。酔われましたか」  いや。赤い額を擦り、ローランスは頭を振った。 「唐突ですまない。順を追って話すべきだ。留意……そう、エクソシズムの留意。彼らは残酷にて、あらゆる知識と力の持主。とてもじゃないが人間の勝てる相手ではない。ゆえに、神は人間の善意を信じられ、私たちに力を貸し付けられる」  彼は顔を上げ、正面を向いた。その細められた目。彼の見ているものはなにか。その視線の先の暗闇、そこになにか見えるのか。  部屋は無音だった。グラスはコップに視線を落とし、ローランスを待った。 「私を日々監視する負の債権者よ、知るがいい。たとえお前たちが過去に犯した私の過ちを責めようとも、お前たち自身はさらに深みにはまり、決してその身は楽にはならない。御子より授かりしこの権利は、いつか訪れる審判のその時まで続き、益々力強くなっていくであろう。そう、何度世代が代わろうとも、途絶える事なく受継がれ」  ローランスは当惑するグラスの顔を見て、また言った。 「私には、信頼できる人物がいる」 「以上を、頼んだ」  そう言ってローランスは部屋を出ていった。  朝。神父が儀式用の衣に着替えるのを手伝った後、エリザは最後にふたりの姿が入るように大鏡の角度を動かした。神父の首からくるぶしまである黒のカソック。羽織った白いサープリス。腰の辺りまで届いた紫の細長いストールを気にしてローランスが聞く。 「だらしのないところはないかね?」  エリザはにこやかに笑って答える。 「ええ、とても頼もしいですわ。ローランス神父さまも、ラエリネック神父さまも」  グラスは聖職のカラーを付けた襟元のホックを止めて、ローランスに頷く。  神父たちが客間に戻ると他の者はそれぞれの準備を終えていた。  既に薬品類をテーブルに広げていた手当て係のアンリは言った。 「神父さま、御儀式は成功しますかね?」  部屋の隅、目を閉じて椅子に座っていたフランソワが薄く目を開き、こちらを見る。  ローランスは笑顔でそれに返した。  ローランスがアンリに向く。 「君たちにはニ週間近くも日々準備に追わせる結果となった。特に君、君はこの期間中、薬局を休業されていたと聞く。自らの営みを犠牲にしてまでも他の者のために働くという立派な善行を、我らの主はお喜びだろう。カステロウ家についても立派だと言える。シモン少年に良い兆しが現れぬとも投げ出さずに看護し続けた愛は、家族の情といえどもとても美しい」  ローランスは深くうなずいた。 「これからの儀式を無事に完成させたなら……、私は、今回関係した全員とシモン君とで、ピレネーの麓にでもピクニックに行くつもりでね」 「まあ、素敵」  エリザは手を胸の前に組む。 「その時はぜひ参加して頂きたい。そして、それを必ず実現したい。全くささやかな夢ではあるがね」  アンリが言う。 「ローランス神父さま、実は私も似たよなこと考えていましたよ。シモン君と一緒に北の観光地でも回れたらいいなと思ってましてね。シモン君の笑顔をまだ私は知りませんから。それに私が不運でさえなければ、今ごろ私も丁度あのくらいの年齢の子と縁があったはずです。他の方も何か、儀式後の計画があるんじゃないですか? 特にフランソワさんとエリザさんなんか」  二人は顔を見合わせ、もったい振って言った。 「はい。つまらぬ所存ではございますが、この悩みが解消しました暁には、皆さまをお招きしての祝宴をと考えております。私も昔は料理人を目指しておりました。ひさしぶりに腕を振るわせて頂きますよ」 「初耳だ」  アンリが笑う。 「わたくしどもは以上ですが、ペテール先生は、何か、ございませんか」 「儀式後の予定です? そうですね」  彼女は束になるほど付箋を挿んだ普及版の聖書を閉じて、それを膝の上に置く。 「私事で情けないのですが、久々にテニスで汗をかきたいと思いますね」 「そうか。大丈夫だ、それなら」自分に言い聞かせるようにローランスが言った。「祓魔式の後の生活を全員が信じている。今回に限って失敗するはずがない」 「儀式の前に、もう一度お祈りをしませんか、それぞれの胸の中で」  ペテールの言葉に皆はうなずき祈りの体勢に入った。会話の外れにいたグラスは小さく笑って後を追う。  祈りの後、最後にローランスは全員の役割を確認する。儀式を執行するエクソシストである己れ。その補助の神父、グラス・ラエリネック。被憑依者に関する情報を提供する、フランソワとエリザ。儀式の記録を担当するペテール。  そして手当て担当のアンリ。 「私は手当てに自信がありますからね、何かあったらすぐ私のいるこの客間に来て下さい。待っている間は私もお祈りしていますよ、皆さん」  ローランスの指示により、グラスはフランソワとペテール、エリザを連れて客間を出た。  儀式の部屋へ向う途中、ホールの大鏡でネクタイの歪みを正す少年の父、プティジャンに会った。 「また教会の集会に家を使っているのか! カトリック教会は資産持ちだろ。うちじゃなくとも会議室ぐらいは用意できるはずだ。どうなのかな」  睨みつけるプティジャンに会釈し、グラスは側の階段を上がって進む。いつものように、頭を透明にして。 「ちから……ちから……力、力、力、力、力、力、力……」  剥き出したプティジャンの目がグラスの背中を追う。グラスは階段の途中、横目に見える聖母像に会釈した。  ペテールは唖然として表情を凍らせる。 「いいかげんにしないかっ!」  怒鳴ったフランソワが革表紙の聖書を床に落とす。エリザは夫をたしなめもせず、静かにその脇を通り過ぎた。  二階。  脇に家具の積み重なる廊下の、突当たりにある儀式のために準備された部屋。開いていたドアを潜り、窓の射し日のない薄暗い中、グラスは備えを確認した。寝台の上、外の明かりに眼球を艶やかせた狡猾な生き物のような少年がいる。その手前、小さな補助机の上には聖書や聖水が置いてある。寝台も机も、しっかりと釘によって床に固定されている。  安堵の溜め息のフランソワがドアを閉め、サングラスを外す。  グラスは黙ったまま机の横に移動し、シーツによだれを垂らすシモンに寝ないでいられるかと質問した。しばらくの後、シモンは微かに唸って返事した。  隙間風でもあるのだろうか。天井の電球が、すべての影を揺り動かす。  誰もが沈黙する部屋の中、グラスは思う。被憑依以前の少年はどのような子どもだったか、どのような遊びをしていたのか。栗打ち遊びか? 木登り競争か? そう、枝投げ遊びはするだろうか? むかし町に来た巡業団の玉乗り少女も知っていた。ドイツだけの遊びではなく、きっと広く伝わる伝承遊びなのだろう。あの遊びは枝の回し方が難しい。この子が元気になれば、友達に負けないくらいの枝回しのコツを教えてやってもいい……。  ふと、グラスはドアの向こうに人の気配が生じたのに気づき、自分の思考を捨てる。  一呼吸間をおいてドアがゆっくりと開く。 『儀式が一度始まれば、完了まで、我らに安らぎはないぞ。彼らがそうさせない。途中で何度も逃げ出したくなるだろう。覚悟がいる』  グラスは腕時計を見る。  午前十時半、儀式開始だ。 ■6  ローランスは机の前に立ち、ゆっくりと皆を見回した。他の者は彼が入室すると共に発生した異常な気配に怯えている。何ともいえぬ雰囲気と息苦しさ。大勢の視線を一挙に浴びているかのような落ち着かなさ、不安定さ。原因のわからぬ胸騒ぎ。天井はある。ドアは閉まっている。床板も透通ったガラスではなく、しっかりとした木板だ。部屋自体には何も起きてはいない。ペテールが我慢出来ずに顎を拭う。  ローランスが言った。 「これは悪魔祓いに付き纏う『現存』だ。君たちも耳鳴や寒気がして不安を感じていると思うが、この『現存』で負者から被害を受ける事はない。安心しなさい。むしろ彼らからの、この無言の威圧に恐怖を抱き、そして冷静さを失う事が危険となる。注意が、必要だ」  彼は黙り、深く呼吸をした。口の中で、祈りではない何かを呟く。 「悪魔に考えが漏れませんか」  不安に思ってグラスが尋ねる。 「……心配はいらない。儀式を不安に思うのは我々だけではないようだ。私たちが負の彼らを恐れると同様に……いや、それ以上か、彼らはこちら側、対峙する相手を恐れている。知識が多ければなおさらだろう。そして恐怖で混乱する負者たちは、自分の考えと読心との区別がつかなくなる。……私の経験からの、推測にすぎないが」 「十分です」 「いいか、グラス君。このエクソシズムによって、悪魔祓いに関する知識と技術を、君自信のものにしてほしい」ローランスは机の上の小瓶に手を延ばす。「私は、疲れている」  彼は顔を変えて厳かに十字を切り、全員の額に聖水を振り掛けた。 「天にまします我らの父よ、願わくは、み名の尊まれんことを」  その祈りに続いて唱和が起こる。  み国の来たらんことを。 「み旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを」  我らの日用のかてを、今日われらに与えたまえ。 「我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」  我らを試みに引きたまわざれ、我らを悪より救いたまえ。  そして併せて祈った。 「国と、力と、栄えとは、限りなく汝のものなればなり」アーメン。  どこかで赤ん坊の泣き声が聞こえた。部屋の中を風が通り過ぎていった。ローランスは首に掛けたまま紫のストールの先をシモンの喉元にあて、右手を彼の頭上におく。 「主の十字架を見、去れよ悪霊」  古の力と高貴なる権能を持てる主は征服者なり。 「神よ、我が祈りを聞き入れたまえ……」  ……儀式らしき時間が続く。  ローランスは祈りの余韻を十分に味わうと、机の上の聖書を手に取った。 『夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった』  他の者も箇所をそれぞれに読む。薄暗い部屋の中、肩を寄せたぺテールとエリザが目を凝らしている。  グラスは聖書を閉じたまま、ローランスの背中を見つめる。突然部屋には黴のにおいが充満した。 「引続き10章1節、『そこで、イエスは十二使徒を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった』」  シモンがかすかに唸り声を上げる。全員の朗読が止まった。近づきつつあると言いローランスは振り返った。 「牧師、記録の開始を」  ペテールは部屋の隅に向う。レコーダの電源が入る音がしただけで、それからは稼働音も聞こえない。 「1978年12月28日月曜、午前10時儀式開始。被憑依者の名前はシモン・カステロウ。ボルドロン司教への成功報告条件は、一切の被害を出さず少年を救うこととしたい」  ローランスの記録のための発言の中、グラスはポケットから手帳を取り出し、ローランスの著作の写しを読む。 『もろき十字架は』と題された著作に、悪魔祓いは六つの段階を持つとローランスは書いている。最初に訪れる「現存の確認」の後、「偽装」、「破局」「声々」、「衝突」と続き、最後に「追放」で完了すると。  グラスはローランスの出した合図に気づき、手帳を戻してシモンの座る寝台の横に回った。  やさしい口調でローランスが声を掛ける。 「どんな気分かな、シモン君」  ベッドに腰掛けていたシモンは頭をもたげ、眠そうな瞳を手で擦った。長い眠りから覚めたかのように爽やかで、不自然とは関りを持たないかの様だった。いつの間にか目の下の隈も消えている。目のまわりの皺もない。 「成功ですか」  驚喜に唇を震わすフランソワは孫に寄ろうとしたが、ペテールに腕を引かれて制された。 「さて、どんな気分かな、君」  静かだった。ローランスの声だけが部屋の中に広がった。いつの間にか暖かい風が舞い込んでいた。時の流れは日曜の午後のようで、照らされた白塗りの壁が、花畑に溢れる陽射しのように美しく感じられた。良く熟れたりんごの匂いが一瞬した。 「こんにちは、神父さま」「お母さん、僕、お腹すいたよ」 『偽装』だとローランスが強調する。 「この言葉の主はシモン少年ではない。話しの相手は少年に成りすます負者。苦しみを招くエクソシストとの対決を避け、慎重に事を進めようとする知性。まずは少年の影に隠れる彼らを光の下に引きずり出さなければならない。最中、悪魔は私たちを巧みに惑わし深みに陥れようとするだろう。注意しておきなさい。わかるか、注意しておきなさい」  ペテールから離れたフランソワが会釈する。  ローランスが口調を厳しくした。 「シモン君、どんな気分か教えてくれはないだろうか」  ぴたりと少年は背伸びを止める。神父を上目遣いに見て言う。 「……ねえ、神父さま、怒らないで」 「私は君の調子を聞いている。怒ってなどはいない。答えてはくれないかね」 「僕、何も悪いことしてないです」 「恐れなくていい、答えなさい。どんな気分だろうか」 「とっても、楽しい夢を見ました」 「どういう」 「ずっと、遠くまで続いてるポプラの並木道で、ぼくがひとりでいると、バスみたいに長い馬車がやってきて、道をきかれました」 「それから」  下品な女の香水のような強烈なりんごの臭いにローランスはむせた。 「それだけです。神父さま」 「その夢の意味を、解説してもらいたいが」 「意味?」  くすくすという笑い声がベッドの下から響いてきた。 「それは粛正のおとずれ」 「そうか。難しい事を言うな、少年」 「ちがうの……ちがう。僕には全然わからない。神父さま、教えてください、意味を。ほんとうに知りたいのは、『幸福』っていう言葉のこと。綴りはわかるけど……」  脈絡もない。ローランスは机の聖書の表紙に右手を置いて誓うように言う。 「幸福の最終域は三位一体との交わりである。だが、経過の途中は人それぞれ、千人には千種の考えがあるだろう」  ペテールは心配して固まったままのエリザの手を握った。エリザはびくりと跳ねた。 「なぜ様々な考えが人の中に充満しているのでしょう。バベルの名残でしょうか」  ローランスは目を閉じ眉間に皺を寄せる。 「さあどうだろう。残念ながら私は無知なのでね、解りかねる。だがそんな私でも悪魔などと討論する無謀さはない」 「ごめんなさい」  シモンは笑い、次に両手で口を押さえて口内で何かを言い始めた。ローランスは薄く目を開けシモンの様子を探る。明確でない少年の発音を聞き取ろうと再び目を閉じて、まぶたの裏から音に注意を向ける。だが分からない。  するとフランソワが前に出て少年の前に座った。彼の頭を撫でながら耳を寄せる。 「何と言っているのだろうか」  フランソワは答える。 「『あなたとは違う幸福が……私の真理』」 「なるほどな」  ローランスは少年に向かって十字を切った。 「永遠に変わらない彼らの常等手段だ。自己を認めさせようとしている」  シモンは口を塞ぐ手を取った。 「今日、神父さまは僕に取りついた悪魔を追い出すためにここに来たのですよね。それは僕を救うためですか? 違います。無駄です。駄目です。僕は何ともないんです」 「悪魔、黙れ」 「神父さまにはたくさんのお友達がいるでしょ? ユダヤ人も、英国人のメーソンも」 「黙れ」 「僕は元気です」  シモンは大きく腕を回す。腕は徐々に速度を増し、霞んで見える速さに達する。 「なんという……!」  グラスは戸惑い、ローランスに視線を送った。ローランスは少年を挑発するように睨みつけるだけで何の指示も出さない。旋風。乱れた空気の流れにグラスの前髪が揺れた。直後、腕は円を描く軌道を外れ、風を切る音とともに身を小さくしていたフランソワの顎を跳ね上げた。 「やめろ」  怒鳴ったローランスを無視してシモンは腕を回し続ける。 「グラス君!」  ローランスは床に倒れたフランソワを引き寄せる。飛び出したグラスは寝台を迂回して少年の背中に回り込み、一方の腕を掴んで寝台に押えつけた。ベッドのクッションに埋もれた腕はなおも暴れる。 「神父、両手を押さえて!」  ペテールが寄る。  その時、シモンがくすりと笑った。  突然、グラスの目には先ほどまで力強く回っていた腕がとても細く見えた。か弱い骨を折るのではとグラスは躊躇したが、急かすペテールの言う通り、もう片方の腕も押さえつけゆっくりと体の重心を少年の上に移す。シモンはかすれた悲鳴を上げたが、幸い痛々しい感触はなかった。 「なぜ今のようなことをした?」  少年のばたつかせる足から身を反らしてグラスは見下ろした。苦痛の表情のまま、シモンは何も言わないでいる。 「イエス・キリストの御名によって命じる。悪魔悪霊共よ、主の加護を受け給いたる我らに対し、危害を加える事は許されぬ。芯に刻め」 「……ねえ、おじいちゃん。神父さま、どうしちゃったの。親切でやさしかったのに」  言葉に戸惑い、立ち上がろうとしていたフランソワは借りた手のローランスと少年の顔を交互に見やる。 「騙されてはならない。相手の調子に合わせるのは危険だと私は言った。相手は純真を装った獰猛なる獣。狂気を撒く腐敗の菌にて……」 「し、失礼な!」  フランソワがローランスの手を払う。 「違う。あなたよ、見なさい。これが孫の可愛かろうシモン君であると信じているのか。以前言ったことを忘れてしまったのか。奴は負者だ。……少年を救うための、儀式なのだから」  口は捻ったまま、フランソワの目が哀願する。  ローランスは目を閉じて深呼吸をした。興奮するなと自分に聞かせ、そして、身体が落着くのを待って、目を開けた。  寝台の上の、うつぶせに押えられた少年。円滑な儀式の進行を望むのならば、『偽装』の化けの皮は、出来るだけ早いうちに剥ぎ取らなければならない。そして、目の前にいる相手が被憑依者ではなく負者であるということを立会人全員に、言葉ではなく直観的に知らせなければならない。『偽装』を破るのが遅れれば、無力な被憑依者を責める司祭に対して立会人たちは反発し、団結した心はすぐさま崩れ去る。 「神父さま、もうお母さんとおじいちゃんをいじめないでよ」  シモンが必死になって訴えていた。 「黙らないか、悪魔」  どのように相手を追い詰めるかローランスは思索する。彼は悪魔を被憑依者からおびき出すため、過去に二通りの方法を取ってきた。一つは儀式中に相手が漏らした三人称での会話を手掛りに、もう一つは意図的に相手を興奮させて本性を現させる危険ながらも明確な手段。 「やめてよ、神父さま。神父さま、やめて」 「混乱を招く負者め!」  かん高い子どもの声に思考が流され彼は苛立った。 「僕は悪いことなんかやってないのに、何で痛いことをするの? 人を傷つけちゃだめって、みんな言ってたのに」「……なんで神父さまは僕の事、悪魔っていうの? 僕は僕なのに……なんで……神父さまなのに……」声が四方から聞こえる。  長いまつげを瞬かせて泣きだすようにシモンは顔を崩す。ローランスは目を逸らす。  シモンはグラスに押さえられて身動きできないまま、寝台のシーツに顔をうずめて泣く。エリザも泣き出しそうに口を歪める。ローランスはふらつく頭を傾けて皆を見た。丸テーブルの横でフランソワはぎこちない動作でエリザの手を引き、ペテールは軽蔑の視線を返してくる。彼は皆の態度の変化に恐怖を感じた。 「早くも関門か」  これまで幾度も経験してきた現象ではあるが、馴れるわけがなかった。半ば冷静さを失った部屋の中、少年の上に、信頼をもって見つめ返す緑の瞳を見つけ、ローランスは安心した。 「支えは、使わされてある」  他の悪魔祓い師たちの大抵は、儀式中や私生活においても周囲の人間から特別視され孤立している。それでもなお同志たちは自分の投げ込まれた拷問のような人生に耐え抜いている。だが、私は、それらとは違う。支えがある、友がいる。私は例外なのだ。楽なものだ。ローランスは己れの境遇に感謝した。  彼はグラスに向って語る。悪魔の持つ巧妙に人を騙す知性。良心を打つ言葉。涙。人を容赦なく責め立てるのは悪魔ではなく司祭の方ではないか? その疑問と疑いは、居合わせた全員、司祭本人すら感じる。だが、エクソシストは一度始めた悪魔祓いを途中投出さず完成させなければならない。負の彼らとの繋がりを、以後にまで引きずらぬように。  黙ったままのローランスにグラスは答える。 「信じております」  グラスはシモンから飛び退き、細かく震えるフランソワを壁まで下がらせた。  ああ失礼しました、神父さま。はい、もう結構です。片手をあげてフランソワは礼を言うが、支える足は未だに震えて頼りない。グラスは彼の肩を担いでローランスに儀式の進行を促した。 「よろしい」  ローランスは寝台に向き直った。 ■7 「シモン・カステロウ少年、明敏な君に一つお聞きしたい」  シモンは伏せた顔を上げた。真赤に充血した眼球がみるみる青白く変色していく。黴のような染みがその表面に浮き上がった。 「いいでしょう。お答えします」 「では聞く。君は悪魔ではないらしいが……、そもそも、この世界に悪魔など存在するのだろうか?」 「いません。この世界でなくとも、どこにもね」 「神は?」 「それは、います」 「君は賢い。私には人の子を超えているように見えるが」 「そうでしょう。言うならば、僕たちは宇宙意識。すべてを包み込む真理、笑い、いわゆる神」 「君はシモン少年ではなく違う存在なのか?」 「シモンである」 「そうか。悪いがもう一つ質問してもいいだろうか」 「……」 「君ら至尊の宇宙意識氏は、一体何をお望みか?」  シモンは僅かばかり首を傾げ、にっこり笑った。 「神なる私の、望みは多い。人の世に住む全ての者の、富への望みに受け応え、そして全ての心の中に、至高の欣喜を、求め続ける。求め続ける。求め、続ける。求め続ける」 「おお、すばらしい。だが」  ローランスは急に黙り、天井に下がる電球に視線を置いた。行交いの言葉が消え、儀式の流れが中断した隙を突いてグラスはフランソワを立たせてローランスの横に着いた。  ローランスは視線を戻す。 「その社会を作り出すことは可能だろうか」 「可能である」 「君の言う富とは何を指しているのか」 「資財と資産。黄金の杯、葡萄酒、欲求の昇華である」 「なるほど」  ローランスは大きく頷いて見せる。 「だが私たちの持つ考えは違う。黄金などといった物質的な豊かさの中には心の充実はありえない。物欲の充実はそれ自体を肥大させるだけだ。君は全ての者の望みに受け答えると言ったが、それは不可能だ。私は負者の事までは知らないが、人間だけに限定して言うならば、その大抵は隣人よりも豊かでありたいと望むものだ。もちろん、そんな事は君も知っているだろうが。なあ?」 「……僕の言葉、黄金や葡萄酒、物を指しているのではなく、それは比喩、それは譬え。お前の脳では理解出来ない」 「一応聞く。どんな譬えだろう」 「黄金は信仰。葡萄酒は契約」  ローランスは横目でちらりとグラスを見る。負者の大過。 「それは素晴らしいな、感心だ。イエズス・キリストの教えは、悪魔どもにまで浸透しているのか!」 「いいや違う間違いだ! 我々がお前たちの記憶に影響を受けたと? 馬鹿言え! ……とは一線を画す。……は回りくどく人を説こうとするが、我々は真理の言葉を直接人に与える。人間を導く術は僕たちの方が上位だ」  当惑を隠し、少年は自信気に言う。 「諭し方はどうでも良ろしい。問題は別の方、主イエズスの教えがお前たちにまで広がっているかということだ。お前が主の教えに従っているのなら司祭である私にシモン・カステロウの治癒を依託して去れ」 「……否、僕は貴様たちの主人など知らない。又、それに従う義務もない。悪霊でもない。自分の体の所有権は自分にある」 「シモン・カステロウ少年はカトリックの洗礼を受けた! イエスを知らぬとは、どういうことだ!」  ふと気づき、ローランスは自分の顔に触れてみた。なぜか体中に抵抗が生まれていた。怒った表情をつくり、顔中の筋肉を動かしてみた。皮膚が突っ張ってぎこちないのが自分でもわかった。 「かたち、ばかりの儀式で人が変わるわけがないではないか。僕は……になど影響は受けていない。生まれた時から何一切変わってなどいない!」 「ああそうかい」  靴の中で、それぞれの指が絡まっているような感触がする。体のことは忘れるべきと、ローランスはシモンの横に座った。 「君――負者よ。私が教会からエクソシズムの許可を取った途端に姿を見せなくなったな、残念だ」 「何のことです」 「悪魔祓い師をからかえるほど余裕があった君。だがエクソシズムの許可が教会より下りた日から、私は疎か家族までにも『姿』を見せなくなったそうじゃないか。エクソシズムについてシモン少年には何も連絡は伝わっていないはずだ。なのにこれほど態度が変わるなど、まるで周りの人間の心が読めるようだ。これ自体、君の超人的な姿じゃないのか?」 「何のことです」  怪訝そうに少年はふたたび眉を動かす。 「告発しよう、君が負者だと」  ローランスは指を差してグラスに聖水を持つように命令した。 「シモン少年が洗礼を受けたとき、儀式に従ってここの小教区司祭から聖水をかけられたのは知っているな? その時、シモン少年は泣き喚きなどしなかったな? よろしい。私は立会人に君がシモン少年でないことを見せなければならない。君が負者なら聖水に苦しむはずで……」 「ちょっと待て!」少年が叫ぶ。 「今の僕はあの頃とは違う。好みが変わった。よくあることだ」 「あなたこそ待ちなさい!」  ペテールが記録簿を覗いて読み上げる。儀式の記録簿か。 「あなたは先ほど、『生まれた時から何一切変わってなどいない』と言ったわ。自分の言葉をおろそかにする気?」 「小を突く馬鹿女牧師! 否、最初から貴様らの主などとは知らぬ。たまらぬ臭いの水も浴びぬ。お前らの記憶は狂っている記憶だ、真実は違う、変わらぬのは我々自身がよく知っている、紙の上のインクになんのいみがある、物質にそれいじょうの意味を与えるなど偶像崇拝に等しいいやまさしくそのままだ、おまえらの主が見ればまちがいなく打ちくだ」  ローランスは固まった少年の横から立ち上がり、グラスに頷いた。 「『偽装』の打破は近い……」  グラスは聖水をかける。弁のついた瓶から二滴三滴、聖水が少年の額に注いだ。少年の額につくと同時に聖水は沸き上がって蒸発し、少年の皮膚に水膨れをつくった。シモンは鼻を啜り、青白く変色した瞳の表面に、血流の赤い筋をいくつも走らせる。グラスは木製の十字架に持ち替えてシモンに向ける。 「すこやかなるシモン・カステロウの神殿を荒らす者よ、汝はイエズス・キリストの御名により我らの指示に従わなければならない」  大きく息を吸い、そして叫ぶ。 「汝たち負者の弱点は唯一、神を裏切るほどの傲慢さ。知識とその力ゆえに滑稽となる者、汝の姿を今、ここに現せ!」  長い沈黙に放心していたフランソワは頭から爪先の全てを震わせた。思わず手放しそうになった心臓の鼓動を全身に感じ、頭中の白紙に視力を戻して、彼はその孫を見る。今のは何だ? シモンなのか? フランソワは動悸に苦しむ胸に手を当て小刻みに息を吸った。フランソワは今し方の記憶を探る。立ち続けて疲れ、遠慮なくため息を吐いて立ち方を変えた先ほど。静かな部屋の中、長い時間をかけ、最終的には床に流れ着いた彼の視線。落ちかけた床のワニス、ベッドの影、視野の隅のシモン。そして……爆発にも似た突然の怒鳴り声。その時、あの子の口は動いたか? いや、微動もしていない。なのに確かに大声は孫から聞こえた。 「俺のヨンピイルを戻せ!」  幻聴か? 夢か? 現実なのか?  「ヨンピイル……。ヨンピイル……。お前はいま何処にいる……」  孫の口が開いたのを目の当りにしてフランソワは再び衝撃を受けた。  隣のグラスが手帳を見ている。 「『破局』へ移行した」  ローランスが叫ぶ。 「ヨンピイルとは何だ! 答えろ」 「ヨンピイルはそのままヨンピイルだ! 馬鹿な神父め! ……ああ、ヨンピイル、ヨンピイル、いとしいお前はどこに行った……。ヨンピイルを引き剥がしやがったあいつ……、ゆるさん、汁の具にしてやる……あいつ……ソンクのくそ野郎め」 「ソンク? ソンクとは誰だ、答えろ」  殺す、殺す、シモンはつぶやき続ける。  ローランスは繰返す。 「ソンクとは誰だ、答えろ!」 「ばかやろう。ソンクはソンクだ」  代わりにエリザがローランスの背中に恐る恐る答えた。 「ソンク……、セラピストの、ソンク氏です。今年の初めに、この子を見て頂きました」 「セラピスト? なるほど、『ヨンピイル』という悪霊が、追い出されたのだな、その治癒中に。小さな悪霊程度なら催眠術などでも追放できると何かで読んだが……本当らしいな」 「なにをぐだぐだ言っている。ヨンピイルは何処だ。言え。さもなければどうなると思う」 「どうなる?」  ローランスは挑発した。  ぼんっ、くぐもった爆発音。不意をつかれてローランスはたじろぐ。シモンの口から青白い煙が揺らめいて立ち上った。エリザは短く切れた悲鳴を上げた。 「ころす」  火薬のにおいが鼻を突く。 「ああ」  ローランスは短く答える。 「教えろ。教えろ。ヨンピイルは、どこだ」 「お前が知らないのなら、おそらく、天国か、煉獄だろう」 「ああ、ヨンピイル、お前は遠くへ行ってしまった……あまりにも遠くへ……」シモンの伏せたまぶたから、滴るほどに涙が溢れる。「いとおしい妻よ……」 「妻?」  ペテールは冷静にペンを走らす。  ローランスは空咳をする。 「一つ答えたのだ。一つ答えなさい」  少年は何も反応しなかった。ローランスは言う。 「シモン・カステロウに取り憑いたお前、名は何という」 「……それを、答えると思うか」  涙を拭って彼は言った。 「答えなければならない」  シモンは目を剥き、嘲う。 「無能なお前がおれに命令する? ふざけろ!」 「お前の考えは直ちに変わる。断言しよう」 「いいや、言わん。あまりにしつこいと、どうなるか、わかるか?」  ローランスは寝台に腰かけたシモンの目の前に立ち、見下ろした。 「イエズス・キリストの御名によって命ずる。名を、名乗れ」 「イ……その名は聞きたくもない! 黙れ!」  シモンは座った姿勢のまま寝台の上から跳ねた。そして肩車のようにローランスに組み付き、彼の頭を殴りつける。 「黙れ黙れ、その名は聞きたくもない!」  シモンを乗せたローランスは均衡を崩して倒れ、その調子に頭を机にぶつけた。脳震盪の頭に聖水容器やロザリオ数珠が降り注ぐ。なおも続く荒狂ったシモンの打撃からローランスは両手の平で顔面を防ぐ。グラスはシモンの肩を捉えて力任せに引き剥がそうとしたが、振り返ったシモンに逆に脛を蹴られて後ろに倒れ、重い音を立てて背中を床にぶつけた。 「やめて!」  ペテールは神父に跨がる少年の片腕に必死につかまる。フランソワもシモンの胴に腕を回して持ち上げようとする、だが、物ともせずにシモンは平然とローランスを打つ。  続く響きに薄れかけた意識のエリザは隅に退いて、部屋中に目を配らせた。  窓の板。打たれ続けて血が噴出さんばかりに赤く腫れあがったローランスの腕。  エリザは壁に背を付け、ああああと声をもらす。  転がった誰かの靴。ベッドの毛布。毛布をシモンに被せる? 震える両手でエリザは顔を覆う。  ローランスが唸った。悲鳴と同時にペテールがエリザの横の壁に突き飛ばされた。肉を打つ音。目を覆う指の間から見えた傾いた丸机……。 『この人たちなんか放って逃げなさい』  悪魔の囁き。思わず見たドア。床にうずくまるペテール。 『彼女が顔を上げてあなたに指図する前にここから離れなさい。ベッドを迂回してグラスの投げ出された足を跨ぎなさい。そしてシモンの横を走って逃げなさい』。  イエス様!   目をつぶり、しゃがんでエリザは頭を振る。躊躇する彼女は誰からか名を呼ばれた。しゃっくりのように肩を驚かせ、機会を逃したと絶望する。 「危険だ。あなたは下がりなさい」  牧師でもなく、悪魔でもなく、若い神父の声。それだけを言い、後は黙った。  エリザは顔から手を下ろす。  この神父に、何の関わりがある? 怒りがわいた。腋の下が熱くなった。  エリザは潤む瞳に部屋を映す。左手のプラチナの硬い指輪。床に落ちているペン。重たそうな聖書。十字架。  十字架。エリザは足元の樫の十字架を取り、小走りにベッドを回って、暴れるシモンの前に突きつけた。  シモンが硬直した。シモンは細かく震える十字架から視線を移し、エリザを見る。 「お母さん、どうしたの?」  エリザは頭を振る。 「お母さん、なんで、泣いてるの?」  エリザは激しく頭を左右に振った。短い金髪に挿した髪止めが飛び、壁で鳴る。彼女は十字架をしっかりと握りシモンの額に押しつけた。神父に跨がったシモンは押されるまま従順に背を反らす。 「どうしたの、お母さん。急に」  シモンはローランスから離れた。エリザは床に涙を散らし、頭を振る。  グラスは白壁を伝って起き上がった。 「怪我の方は?」  フランソワはベッドに掴まって身を起こそうとしている。彼はグラスの目に気づいて「平気です」と言った。老体ながら丈夫な身体を持っているようで、大したことはない。 「ローランスさんは!」  グラスが見ると、先に彼の体を案じたペテールがローランスに肩を貸して立ち上がろうとしていた。意識があるようだ。無事だ。 「ラエリネック神父、見ているだけですか!」  ふらつくペテールがグラスを睨む。 「失礼した」  彼女の反対側を助ける。ローランスが大丈夫、大丈夫だと言った。だが、その身を腕で防いだため、ローランスの衣の袖には無数の裂目があった。そこから覗いた肌はまだらに赤く腫れ上がっている。すぐに痣になるのだろう。 「立てますか?」 「腕と同様こころは燃えるように熱いさ。ああもう大丈夫、片足でも立てる」  ローランスが一人で立つのを見届けるとグラスは反射的に自分の腕時計を見た。時計は午後一時三十分を指す、秒針は休まず進んでいる。こちらの友も無事だ。 「お母さん、やめて」  シモンが叫んだ。シモンは後退して寝台に寄り掛かった。 「目が、目が痛い、つぶれ……!」 「穢さないで」 「お母さん、僕が見えないの」  ちがうの。彼女は泣きながら訴える。どこに連れて行ってしまったの? 揺りかごの中のシモンを。毛布に包まって初めて喋ったあの言葉は? 水たまりに靴を濡らして笑ったあの笑顔は? 初めて鉛筆で書いたあの文字は? 引き抜かれる花壇の雑草をかわいそうと言ったあの子は。わたしのあの子はどこにいるの?  「イエス様」  電球が揺れる。耳鳴りが強くなった。 「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………俺の名は『ちから・ちから・ちから』」「お前らを殺す事など造作もない」  異様に巨大化した犬歯が下唇を噛む。 「いずれ、その肉を、食い千切ってやろう」  エリザは泣き崩れ、十字架を床に落した。フランソワがエリザをなだめながら後ろへ下がらせる。グラスは十字架を拾い上げ、軽く接吻した。 ■8  力・力・力?   やはり力を誇示する悪霊だろうか? 力……どの種の? 話術、念力、呪い。いや、腕力。そう、今の腕力か。  ローランスは裂かれた白のサープリスの上から、痛んで痺れる腕に近くのルルドの聖水を垂らした。法衣に血がにじむ。つめたさに腕は痛んだが頭は冴えた。 『斥力の雌虎』『法力さま』などという力を連想させる負者とローランスは対面したことがあるが、『力』と直接名乗る悪霊は初めてた。  立会人たちの苦悶の表情を見て、力・力・力が舌を舐めずっている。 「老いぼれのフランソワ、お前は馬鹿だ」  その罵声の語尾が震えているのを聞き逃さなかったローランスが、独り言をつぶやく。 「先の暴力は力の誇示だろう……そして真の実力はさらに上。だが……、力の見せつけは失敗し、逆にこちらの信仰心を煽った……」 「世界から一人とり残された空しさの司祭、お前だローランス!」  いいか諸君、「わたしの感じたところでは」ローランスの存在感が急に高まった。力・力・力が口をつぐむ。「この力・力・力はあまり知能の高くない悪霊のように思える。この種の悪霊は野の獣とおなじく獰猛で、また非常に臆病という側面を持つ。……執拗に追い詰めれば奴は牙を剥くだろう。どれほど知能が低かろうが、腕力だけでもこちら側を牽制し、十分なサタンの交渉力となりうることを改めて認識しなければならない」 「フランソワ、フランソワ! せっかくの年月をぶくぶくと肥大させやがった大馬鹿者!」 「力・力・力よ、関門は過ぎ去った。お前は腕力しか持たぬ霊である。しかもその腕力は、子どもの体力を無視し、その体を酷使することによってしか得られぬ、際限に支配されたものだ。シモン・カステロウに巣くう声の主よ、お前は気づいていないのかもしれない。教えてやろう。少年の肘や肩や指先や唇は、お前の酷使のためによる痛みと疲労とによって既に痙攣を起こしているではないか。見るがいい。我々の精神を打ち砕くことは今のお前にはかなわぬ、去れ!」  ローランスを無視し、ベッドを揺らして悪霊はわめく。 「いいや去らんさ! なぜなら小僧の肩は息切れに苦しんでいないからだ。このことがわかるか司祭、わからんだろう。この俺が腕力だけだと甘く見縊った馬鹿司祭。おい司祭、ついでに教えてやる。貴様は信者の罪を許す力を持っていると思い違ってるな。おい司祭、たかが人間にそんな権利があるわけがないだろ! 妄想にすぎん、人間の犯した罪は永遠に消えんのだ。馬鹿やろうな人間は死ねば我らの王国の地の底の獄舎で永遠の笑い草になるだけだ。おい、フランソワ、お前だフランソワ、意気地なしの大馬鹿野郎答えやがれ!」  フランソワはその罵倒に戸惑い、眉間に皺を寄せてグラスの背から少年を見た。だが、眉間に寄せられていた力は、徐々に弱く、薄れていった。  フランソワは、シモンの瞳に惹かれた。  少年のふたつの瞳は、夕方の空のように暗く青く、夜の優しさを持っていた。  いつの時かのその空を、フランソワは覚えている。少年は瞳を閉じ、静かに闇に包み込む。フランソワの両足は大地から離れた。踏みしめる場のない深い空に、彼は落ちていった。  彼は、皆の立つ場所から一人だけ落ちていった。夢を見ていたのか? ベッドが崩れた時のように、体の重さが一瞬なくなった。突然だった。彼は床に立ったまま、両方の手のひらを見た。体が軽やかだ。今もなお、老体の窮屈さは感じられない。  若さか?   機械的な雑音のようなものが思考を遮った。神父たちがシモンに十字を切り、何かを命じている。その声も、物音も、なにも聞こえない。滲んで見える世界の中、寝台の上から、じっと見つめるふたつの瞳だけが鮮明だった。目の前の出来事から、現実感は感じなかった。脳と眼球が、相当に離れているようだった。視野が妙に歪み、何が起きたのかわからなかった。ただ、何かの言葉だけが頭の中を反響していた。 『奥深くには、悪魔がいるぞ。丁度いい。願いを訴えれ、あなたよ』  その声……。  戦死した部下の声。爆死した部下だ。フランソワの前でだ。良い友でもあった。お互い故郷の話をした。その部下のブーツをフランソワが磨いてやったこともあった。その部下だ。膨れ上がる光の中に呑まれていったあの部下だ。  以降だ、フランソワが爆発や閃光の印象を持つ、太陽、間近の白熱灯、大音響、五芒星のように放射線状に広がる図形を、恐れるようになったのは。  ああ……、フランソワは両手で顔を覆う。  フランソワは、自らを守るのに必死だった。なにかが心に浸透してくるのだ。エリザやローランスのように、悪意に憑依された寝台上のシモンに構っていられる余裕などないのだ。 「主イエス・キリストの御名によりて命ずる。汝は暴言を慎まなくてはならない」  ローランスの命令に力・力・力は素直に応じた。  たしかに神の名はよくしなる鞭のように悪霊を苦しめる力があるようだとグラスは一人うなずき、他の立会人の様子を見た。  牧師のペテールはあらためて関心し、明確な神の権威に、小さな口を半端に開けて見惚れていた。グラスの視線に気づいて、彼女は体裁を正して不快そうにグラスをにらみ返した。  エリザは不安そうに眉を曲げ、シモンとローランスを見ている。再び少年が暴れるのを心配しているのか。  グラスは目を細める。  フランソワは半口を開け、彼にとっては宝であろうシモンを見ていた。彼は笑っていた。  また、フランソワは大きなあくびをした。  彼は疲れているのだとグラスは好意的に考え直し、すぐさま自身の思考を捨てようと長い瞬きをした。今はローランスの儀式なのだ。あくびの後、ローランスは首を左右にゆらゆらと振った。彼が何を考えているのかグラスにはわからなかった。  皆が寝台の少年を見つめる中、グラスは周囲に気づかれぬよう彼の横まで下がった。 「どうしました、フランソワさん?」  声が近づいたのに気づいてフランソワは何かを言った。ちらりとペテールがこちらを見たが、すぐに視線を少年に戻した。 「悪霊よ、主の御名の下に汝に問う。力・力・力の名に秘められた策謀とはなにか。答えろ」 「いまにわかる、しがない司祭野郎」  彼はどうしたのか。事態の前進に思わず喜びを感じたか。グラスは再び彼の名を呼ぶ。  フランソワがつぶやく。グラスは彼の言葉に注意を向けた。多数の力……ああ……我らを……く万力のごとき…………、…………お願い申し上げる……。  彼は何を言っているのか? 祈りか? フランソワのつぶやきにグラスは神経を集中させる。目の前ではローランスがシモンに十字架をかざしていた。  ……らを導く万力の……狂気の、よ。その力強き腕によりて我らの手を……。グラスはフランソワの瞳を見つめた。  グラスは聞いた。 「…………ああ、我らを導く……のごとき狂気の腕手よ……、その力強き腕によりて……我らの手をとり、失明するこの魂を……闇に引き連れ給うことを、お願い申し上げる」  フランソワの瞳は、神々しいものでもあるかのように力・力・力を見、そして笑顔で迎えていた。  グラスは強く目を閉じる。  ローランスが聖書を朗読している。 『ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった』  ローランスは聖書を閉じる。 「悪霊力・力・力よ。お前を送った悪魔はお前に何を望み、そしてどのような意味でその名を与えたのか。この聖書の箇所にある悪霊と同様に『乱暴者』としての働きではないのか? 主イエズスの御名によりて真実を答えよ」  ふん、と少年の鼻がなった。 「それは、まちがい。ブー。ぶぅぶぅ」  嘘か? ローランスは悪霊を観察した。少年は神の御名の前に平然としていて、嘘をついている様子でもない。 「名の意味……由来は?」 「ああ、ああ、答えてやるさ。司祭、老いぼれを見てみろよ」  脂とよだれとによって電球の光に照かった顎を突き出し、力・力・力はフランソワを示す。不気味に笑ったフランソワのその瞳には、シモンと同じ、青黴のような染みが浮んでいた。  ローランスは目を釘づけにして硬直した。やがて、ゆっくりと奥歯を噛み締める。 「少年にばかり気を使っていた。まさか、立会人から来るとは」  馴れ、だ。ローランスは悔やんだ。いつの間にか、彼は悪魔の現存するこの空気を不快に思わず、むしろ馴染んでさえいた。それは自らが王国と似た質になっている事を示している。あらゆる出来事が発生するのを前提とする空間で、彼は過去の経験にのみ頼り、習慣として対処を施すだけになっていた。それは、ただ動作や作法を繰り返す儀式、葬儀などと大して変わらない。『現存』、『偽装』、『破局』、『声々』、『衝突』。敵は特定の順序を踏んでくるとも限らない。まだ知らぬ術を持った敵もいるだろう。状態を検討しなおすには、エクソシストとしての歳を取り過ぎたか。どのようなことでも起りうる世界というものを、ローランスは知っているはずたった。だが人には馴れが取り憑く。  まさか、既に手遅れか……? いつだ、いつ頃からこの状態になったのか? 「いつからだ」フランソワの眼球の染みから目が離せず、ローランスは誰とも限らずに大声で問うた。  彼と同じくフランソワに向かって立つグラスが答える。 「そう経っていません」  フランソワに近づいたローランスは彼の肩に触れようと手を伸ばしたが、途中で手を止め、少年を振り返った。 「悪霊の本体はこの中だ。彼の内面に焼き付く前に、力・力・力を追放する。今は何時だね?」 「二時です!」  グラスよりも先にペテールが答える。  ローランスは銀のネックレスに接吻した。 「一時間で済ますぞ」  エリザが不安そうな顔をして、傍の神父の腕に触れて聞いた。 「どうなってしまったのです」  額に、胸に、左肩に、右肩にと十字を切りながら、グラスが汗の浮く額で大丈夫と労わる。うとくもようやく事態に気づいたエリザは目を見開き、驚きの漏れる口を手で隠す。 「安心しろ。こいつはもう俺の体だ。大事に扱ってやるさ」  力・力・力が笑った。同時にフランソワも体をくねらせる。 「悪霊力・力・力、主イエズスの御名によって答えよ。お前の名前の由来を明かせ」 「すでに、だ」 「父なる神の右に座したまえる、主イエス・キリストの御名によって命ずる。お前はその名の由来を明確にせねばならない。黙り込んでもこの命令は流れ去らん、この命令の拒否はできんぞ!」 「……俺とその老いぼれ。俺一つでは完全ではない、俺の力は増殖してこそ俺の力となる。故に増殖は俺となる」  腕を組み、考える格好に顎を指で押さえていたペテールがローランスの横顔に言う。 「量……、数ですか」 「『力・力・力』か。なるほどな」  腕力ほど単純ではない。最初から難しい悪霊に当たってしまった。ローランスは腕を下げたままこぶしを握り締めた。まだ知らぬ類の負者。どうするか。本体を全力で叩くか、相手に合わせてこちらも範囲を拡大すべきか。悪霊を討つだけなら全力で決着をつけた方がいい。だが被害を抑えることを考えればそれは正しいか。少年を救うのに彼を犠牲に出すことはできない。当然だ。が、拡大が拡散になることはないか。 「神父、指示を。私は何を」ペテールが剛健な瞳で寄った。  よろしい。柔軟な振りでローランスはグラスに向く。 「グラス君、フランソワさんを任せる。牧師とエリザさん、ふたりは共に補助司祭の手伝いを」奈落に落ちた重体一人よりも、克服の見込める六人の方がましだ。 「こちらは、一人で十分」  ローランスは皆を背にして悪霊を見下ろした。 ■9 「お前の手段となるフランソワ・カステロウ氏を引き戻す。お前だけでは未完成、そうだな?」 「どうなるか……」  少年は無表情のまま寝台に座って床を見ている。 「いまの内なら発言を許すが」  ローランスは待った。その間、心の中で聖母を賛美していた。しばらくして少年が顔を上げ、唾液の糸が引いた口を広げた。 「人間は、協力することで、強くなるな? きさまは、同じかたちの存在を、傷つける気だ。よいのか、そのようなことで」  力・力・力がこちらの顔色を窺う。  相手が語っている最中は余計な口出しなどしまいと思っていたローランスだが、力・力・力はそこで黙り込んでしまった。警戒しているせいか口数が少ない。  ローランスは言う。 「同じ形の存在を傷つけているのはお前だ」  見上げる力・力・力は何も言わない。 「お前も元は人間であろう。なぜに人を傷つける」 「愚問だ」悪霊は顔を下げて言った。「おれは人間を食った。人は、人をころす」 「どっちだ」 「しらん!」  ローランスは頭を掻く。 「しらんはずはない。お前たちは言葉の生き物だ」  急に少年は顔を上げてローランスを見つめる。目の中に飛び込んだ砲弾のような威圧感にローランスは緊張し、神の名を繰り返し唱えて息を潜めた。しばらくの間、少年の探照灯のような視線が留まっていたが、少年は諦めてうな垂れる。  戸惑いを見透かされないよう、息つく代わりにローランスは落ち着いた口調で言った。 「お前たち不義の者を追放する力を私は欲し、そして真理による教会からその権限を授かったのだ。ゆえにお前たちが私の思考を吸い出し、私を取り込もうとする試みは、その力の前に退けられる。お前に為す術はない」 「どうしていいかわからんのは貴様も同じだ司祭。力なき者よ!」  間髪入れずに力・力・力が反論する。  ローランスは是正した。 「ああ、今回も……そう、今までも手探りだ。わからん。全く、わからん」  力・力・力は不良少年のようににやにや笑っている。 「だがな悪霊、私が知らなくとも、我らの主はそうではない。カトリック司祭はそれぞれ手を引かれて導かれ、神の下の教会より自分の使命を受けている。地域の司牧の使命、故郷より遠く離れての宣教の使命、文書伝道のための翻訳の使命、教会会計の使命、……そして」  力・力・力は凛々しく立つ神父を見上げた。神父は静かに息を吐いて続ける。 「世界最大の教団であるカトリックだ。背後に携わる何億もの人間を思え。悪霊よ、それら全ての重みの掛かった切っ先である私を喉元に突き付けられる気分はどうだ」  力・力・力は何も言わない。 「私の使命を、知っているな? その使命を遂行するため、私は主より導きを受けている。悪霊力・力・力よ、偉大なる主イエズスの御名によりて私の問いに答えてもらいたい」 「……場合によってはきさまを殺す。後も、先も、俺はきさまらの神など、おそれん! おそれはせん!」  負けじとする悪霊にローランスは尋ねた。 「シモン・カステロウに憑依したのはいつだ。私にわかるように言え」 「……」 「憑依者よ、お前たちには真の勝利など存在しないではないか。なのになぜ人間を惑わす? お前たちには神より与えられた居場所があるはずだ。なぜその場に居着かない」  少年は顎を天井に向け、ローランスを水平に見下ろす。床を足の裏で何度も叩き、いらだちを報せていた。  また、飛び掛かってくるのだろうか。ローランスは肩の力を抜いた。 「したければそうするがいい。肉に大した未練はない。だが、最後に私はお前をねじ伏せる。……この力は、信仰だ」  悪霊は真っすぐ顔を向ける。毛が抜け落ちてかすれた眉のあたりが盛り上がって額の方に動いた。力・力・力は神父の無知さに首を振った。 「居場所などあり得ない。王国はつめたい。暖かさが皆無のつめたさだ。そんな場所に耐えられると思うか、お前たちは耐えられないだろう、いや耐えられるはずがないのだ。地の底には何も届かない。なにもだ。それに比べ人間の中はどうだ、なんとあたたかいのだろう。その我らのやすらぎを奪おうとするきさまは何者だ、そんなきさまが俺を悪だと言えるのか。先の書の箇所にもあったはずだ、きさまらの主でさえ、我らを気遣って地の肉を開放した。なのに、きさまには寛容がない。きさまは帰れという。地獄だ、その先は地獄なのだ。我らは常に焼かれる、きさまらが指先を火傷したぐらいで騒いでいるのに。そして突き刺される、削ぎ落とされる、大まかな確率の中で選び出され、虫に食われ続ける。地獄は永遠なのだ。永遠だぞ。永遠の意味がわかるかきさまに! 過ぎ去った罪に何の咎めが必要だ? きさまらは日々過ちを繰返している、きさまらにこそ地獄は与えられるべきだ。きさまらがもし地獄の一端でも垣間見れば部屋から一歩も出れんようになるぞ。きっと自分の罪がそれ以上にのしかからん内の死を乞い願うはずだ。これは脅しではない。きさまらには見えない事実だ、おそれろ、おそれろ、真の恐怖は、きさまらの主人にこそある。罪が増えんようにきさまら何も言うな。哀れな俺を見逃せ。何からも愛されぬ我々が、全力で人間の快楽を生み出すことでやっと得る居場所だ。このガキもそうだ、我々は地獄から逃げるためにガキに尽くした。そして、ガキはよろこんだ。つめたさしかしらん我々を愛してくれた。戸を大きく開いて迎え入れてくれたのだ。我々は屋根裏の使用人だ。使用人に何のようだ。司祭、用件を言え!」  悪霊は眼球を半分ほど飛び出させて言い猛った。ローランスは目を閉じて力・力・力の話を聞いていた。そして、最後に相手が思いをぶちまけたのを聞いて目を開けた。 「私には、助けを呼ぶ子どもの声が聞こえるぞ」  ローランスは、自らの心が悪霊の言葉に揺るがぬように祈っていた。ローランスは神を信じていた。神は、決して暴君などではない。善人には理想をさらに求める渇きを、悪人には光の道に戻るための導きを賜われるはずなのだ。神は、絶対の平等によって人間を裁かれる。そして神は義理に厚い方だ。正義を貫いて死んだ人間と、導きの手を払って血の宴に明け暮れた人間とを同じように扱われはしない。 「俺は神の導きなど見なかった!」  思考が悪霊に流れた。 「神は業を怠ったのだ、なのに俺は永遠の獄の中で苦しむ。なぜだ!」 「神の御手が、お前にだけ伸びていないと? 否。私はそれを確かめることは出来ない、その必要もない。私は神を信じている。見ろ、この衣を。私は神父ではないか!」  我がイエズス、我が信頼。ローランスは一言ずつ祈りを噛み締める。我がイエズス、我が信頼。  ……そして再び少年を見やった時、ローランスは導きを受けたかのように思い出した。力・力・力には、ヨンピイルという思い人がいたはずだ。ヨンピイルとは、何者か?  「お前の妻、セラピストに消されたヨンピイルとは、どこで出会った」 「……」 「どうなのだ?」 「光……影……、そして互いに常に求め続ける。俺にとっても、あいつにとっても、互いが全宇宙!」 「悪霊よ、お前たちは二人してなぜ堕ちたのだ、答えよ」  少年の額に一瞬にして汗が湧き、眼球が動いた。彼は、捕えられて怯える兵士の目をしていた。監視の目があるかのように、何もない空間を震えながら見ている。  ローランスは十字架を向けて繰り返す。 「イエス・キリストの名によりて」  腰掛ける寝台のシーツをすべての指を突き立てて掴み取り、力・力・力は小柄なローランスの頭上と、何もない空間とを見比べた。そして身体中の毛を逆立たせてローランスに従った。 「……ヨンピイルは俺の糧! 右手と右足はその日中に。体は塩壷に詰めた。頭は腐らせて食うために、小突いて茶わんにのせていた。それをとなりが塀の隙間から覗いて、俺は牢に詰められた。ヨンピイルと共に歩めんくなった俺は、前歯で舌を刻んで呑んだ」  興味を持ったローランスは顔を近づけて聞く。 「ヨンピイルは悪霊なのか? ヨンピイルは地獄に落ちるようなことをしたのか?」 「いいや。あいつは俺のもんだ。俺はあいつを食ったから、俺の中のあいつは俺と同じ道をたどる」 「悪業の模範ではないのだな」 「……あいつは俺の言うことをよく聞いた。だが……だが、セラピストのソンクは……! ガキからあいつを追い出しやがった!」  悪霊の怒りの気に侵されそうになるのを感じ、ローランスは身を引いて考えた。 「セラピストが、か?」  専門家外に払い除けられるほど小さな悪霊など、いないのではないか……? たとえば、地獄に苦しむ己れを慰めるため、生前の思い人を作り出したとする。唯一の救いに悪霊は過剰の期待をし、その存在を全てとする。  だがその指人形は、小さな風で吹き消える。  妻を愛するがゆえにその肉を喰らい、そして裏腹に妻と離れる結果となった、おろかな罪人よ。悪霊が指人形をつくるのは仕方のないことなのか? それともお前が特別なのか? 今までこのような話など聞いたことがない。この説が間違っているのか……それとも。  罠にかかる危険性があるために深く悪霊を探るのは望ましくない。興味は尽きなかったが、ローランスは銀の十字架を握って祈りに入った。 ■10  ペテールは記録簿を開いてフランソワを見据えた。過去の資料から学んだことを思い出す。  エクソシズムの『破局』。悪霊が被憑依者から独立した存在として行動を開始する段階。『破局』から『声々』に事態を進展させるには、『破局』を悪霊にとって息苦しい状態におけばよい。 『イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった』  記録簿を下ろし、躊躇しながらもペテールはドアを背にして立つフランソワに十字を切った。 「かたちだけの朗読など、無意味」  フランソワの口から、しらない声が漏れた。一瞬ぞっと身を震わせたペテールが、気を取りなおして言う。 「彼、フランソワ・カステロウに巣食う力・力・力、神の言葉として聞きなさい。あなたの場所は彼の中にはありません。闇の者であるあなたは闇に帰るべき存在……」  フランソワは顔の角度を変え、影を変え、彼自身の声でペテールの言葉を遮った。 「私のなかには、闇がないとでもいうのか? カステロウの血筋には、人の罪が流れていないとでもおっしゃるのか?」 「イエス・キリストの勝利。あなたたちに属するものは全て流れ去ります。そのはず」  そのはず? フランソワが繰り返した。 「何を意気がっている娘、ローランスがついていない貴様たちに俺が負けると思うか」  フランソワは立ち塞いでいたドアから離れてペテールに詰め寄り、顔を近づけて言う。 「揺ぐ貴様の瞳……、牧師……娘よ、貴様は、我々に似ている」  ペテールは小さく悲鳴を出して横に避けた。フランソワは立ち尽くし、眼球だけでペテールを追う。 「道は空けておきました、牧師先生。お帰りなら、車をおもてに回しましょう」  フランソワは天井に向かって両腕を広げた。何かに興奮しているように呼吸を荒くする。 「悪霊よ。この場での神の代理人は私である」  グラスの言葉に、フランソワは眠たそうな目を向ける。 「ラエリネック神父」  悲鳴か安堵かの声をペテールが出す。 「思慮深い行動を願います」 「わかっています」ペテールは赤面し、恥を払い捨てるように腹立たし気に言った。  両手を挙げたフランソワにグラスが簡潔に言う。 「手を下げよ」  フランソワは従わなかった。その代わりに呼吸を落ち着かせ、いかりの消えた目で壁際のエリザを見つめている。望郷の思いに駆られたように、彼は目を薄めた。  返事を返すように突然エリザはフランソワに近づき、無謀にも彼の両手を掴んで引き下げはじめた。やめなさいとグラスがエリザの肩に手を掛けるが、彼女は聞かない。やむをえずグラスは危険が迫ればすぐに対応できるよう、警戒して彼女の後ろに立った。  フランソワは表情を保ったまま、不思議そうにエリザの胸元に付けられたピンク色の十字架のブローチを見つめる。わずかに抵抗の見える彼の両腕を腰の横まで下げると、エリザはゆっくりとフランソワの後ろのドアの前に回った。  取り憑かれたのではないかとグラスはエリザを見ていたが、その心配はないようだった。彼女は両手を組んで祈っている。  フランソワはエリザの去った後も微動だにせず、彼女のピンクのブローチのあった高さを見つめ続けていた。そして突然、高い声で笑いはじめた。 「はるか昔の回教徒虐殺の時から、お前たちは変わっていない。剣を持った直後の手で、十字架を神聖なものとして掲げる、貴様ら!」 「何を言っている」  グラスが悪霊を制御しようと神の名を呼ぶが、鼻で笑われる。 「神を見失う狂信者ども! 偽善という言葉は、狂気という言葉は、誰の為にある! 十字架を掲げたきさまらに、我が父も殺された! 復讐の誓いを今思い出したぞ」 「我々に理解できるように話せ。主イエスの流された御血を思ってここに命ずる」  十字を切りながらグラスが言った。フランソワは不自然に下がっていた両手を上げて、己れの頭を左右から締め付けはじまた。  グラスが怪しむ。 「力・力・力よ、それらの行動には何らかの意味があるのか。我らの主イエスの御名によりて答えよ」 「父は薬窟でころされ」悪霊は先の命令に答えていく。「けむりの中で、蹂躙を受けた。……人の年月でいう、二百年以上ものあいだ、思いつく限りの復讐の言葉を叫び続けた俺に、とうとうその機会の戸が開けられたのだ。この今、きさまらは祈る神から引き離され、絶望を見い出すのだ。神よりも王に従える司祭、その同類、つながるすべての者ども」  蛇が食い付くように、フランソワの手がグラスの左肩を掴んだ。グラスは振り払おうとするが、悪霊の腕力は強い。肩に食い込んでくる指をグラスは全身で押し返そうとしたが、抵抗する力も痛みに削がれていく。フランソワの指は鎖骨の裏側にまでめり込み、半身が浮くような感覚にグラスは思わず十字架を落として声を漏らした。  と、その時にペテールが目つぶしのようにフランソワの顔めがけて聖水をかけた。フランソワはグラスを剛力で突き飛ばし、両手で顔を被って床の上にのたうち回る。立会人たちの足や白壁や木のドアを何度も蹴って悪霊は暴れたが、彼は目を被っていた手のひらを、胸の辺りに片方ずつずらして唸りはじめた。動きはずっと静かになり、事故者のような、亡霊のような声で唸り続けた。 「大丈夫です」  グラスは肩を押さえてペテールに礼を言い、床に伏せたフランソワを見下ろす。フランソワの額には汗が浮び、聖水を受けた目元の痛みの代わりに、内臓の病のような、どうしようもない苦痛かに元の気品ある顔を歪めている。  体の中で彼と悪霊とが戦っているのかもしれないとグラスは思った。  彼の心を案じていると、フランソワの顔から苦悶の表情が消えた。グラスは注意深く見る。次の瞬間、真っ赤な目のいやらしく口を開いた顔が浮んだ。二股に分かれた蛇の舌で口元を舐めずるその顔を見て、グラスは神の名をつぶやく。  だがその顔も、首をもたげ振り向いてエリザの祈りの姿を一瞬睨みつけると、そのまま脱力してうな垂れる。彼は起こしかけていた半身を再び崩した。  グラスにペテールの影が寄った。グラスは無意識にも嫌悪に体を引く。ペテールが言う。 「気を失ってるみたいです。……この力・力・力という悪霊は、さき復讐を二百年待ったと言いましたね。私の提案する方法なのですが、儀式室外に別班を置き、その二百年前の歴史を資料館で調べて適合の事件や場所を発見することができれば、力・力・力の弱点や元の生活習慣を知る事ができます。危険を減らせる新しい悪魔祓いの成功例を作れば、今後、世界中で潤滑に儀式を進める事ができるのではないですか?」  ……そんなことには興味はない。グラスは、ローランスの儀式中に自分の意思が不明確になるのを避けたいと考えていた。グラスは首を振った。 「それは他の方のなさることだ。それよりも」  不満気な顔のペテールと共に、グラスは倒れているフランソワを担いで壁の下に座らせ、壁に上半身をもたれる彼の左右についた。  緩みも緊張もなくなった彼の顔からグラスは指で顎をおし開いて、口の中に舌を噛んでいないかどうかを確かめた。衰えた歯並びの奥の充血色の舌の端が、彼の肩を激しく揺り動かすペテールのためにだらしなく口内に垂れて震えているだけだ。先の異常はない。 「完全に気を失っていますね」 「ああ、頼みます」  気を失ったフランソワをペテールに任せると、グラスは静かに立ち、不思議な気持ちでエリザを見つめた。エリザはすでに寝台側の対立に加わり、こちらを見返ることもなくローランスの後ろでその神父にも気づかれずに床に膝をつき祈りを捧げていた。  神に従順な婦人の姿を見て、少女のようだとグラスは思った。祈りはきっと聞き遂げられると信じて一生懸命に神へ語りかける穏やかなその表情は、疑いの心をまだ持たぬ子どもの様だ。まるで母親のたくましさや分別のよさや世俗の雰囲気を放棄しているかのように潔癖だった。彼女が幼く見えるのは、なにもその頼りなさだけではないようだ。だが、純白の幼子の祈りを見せる彼女も、確かにその一人子を守り徹そうとする堅い決意は母性から来ている。やさしく見守るその瞳の愛と、乙女のような汚れなき頬とは、聖母マリアの御像そのままだった。畏怖を感じて身を正すと、グラスはローランスの横に就いた。  気づいたローランスは振り返って気絶のフランソワを見る。かんばしくないというように首を振った。 「設定の三時までどのくらい残っている?」  グラスは腕時計を見て答えた。三時までわずか十分。 「終わりそうにないな。これはまずい、気懸りだ」 ■11  フランソワは……この部屋の暗さに安らいでいた。ここではサングラスもいらない。電球も小さく、見上げても恐くはない。  彼の、記憶の中の、爆発。  くそ、詳細地図を忘れた!   待っていて下さい。自分が取って来ます!   フランソワは、口を半開きにした力のない顔を、夜空に向けた。うっすらと開けた目で、白と黒の点滅を見た。   ……なぜ、装備を忘れたのか? なぜ、部下をトーチカに戻らせたのか? なぜ、彼が死なねばならなかったのか? なぜなのか?   強い光が、目蓋を透き通す。  太陽と、投光機と、突然の大音響と、放射線状に広がる図形と……。日常の中で、体を硬直させる呪いだ。  ……一瞬にして自分の服が熱を持った。焦げのにおい。鼻と目の痛み。  光を受けすぎて物が見えない。熱い風が、顔を焼く。中身のある半長靴が、転がってくる。  フランソワは乾いた口を閉じる。 『声々』は既に到来していた。寝台の上に腰かけて目をまるく開いたシモンの口から、天井から、記録作動中のレコーダのスピーカーから、鼻先の空間から、聞き取り難い大勢の話し声が聞こえてきた。いつの日かローランスがシモンの部屋で遭遇したものと同質で、悪魔祓いの最中には必ず現われる現象の代表だった。だが、今回それは特別な方向に流れていた。本来ならば『声々』の責め立てる目標はエクソシストと補助司祭のはずなのだが、今『声々』が相手にするのはフランソワだったのだ。  その『声々』も峠を過ぎ、流れ去って行こうとしていた。  力・力・力が言う。 「なぜ、だ?」  フランソワは静かに泣き伏していた。 「貴様は、臆病ものだ」   フランソワは泣き啜り、床に額を押しあてて首を振った。 「貴様、過去だけは消せぬ」 「……私は」  周囲の声々が一斉に騒めく。 「あれは良い火だった」「青空を見上げ、部下に話して聞かせたあの夢」「なによりも尊いものに見えていた友」「世界が光り輝いて見える眼球を失った貴様」「運命だと?」「仲間の兵士など振り解き、貴様もあの中へ飛び込めばよかったのだ」「負傷していた仲間に、貴様を抑えられるほどの力があったのか?」「……卑怯者よ」「卑怯者」「卑怯者」  シモンがベッドから降り立った。部屋の隅の祖父を見下して言った。 「卑怯者」  フランソワを罵倒する声は遠ざかり、数多くの声はひとつずつ消えていった。不快な連想に繋がる言葉にかき乱されていた部屋はあといくつかの声だけを残し、少しずつ平静を取り戻していく。  少年は指を鳴らした。床に擦りつけて赤くなったフランソワの額がみるみる紫色に腫れあがって化膿し、皺に沿い、やわらかい固まりである黄白の膿が流れ出した。フランソワは手のひらに大量の膿を受け、震え、叫んだ。  部屋から消えていく最後の声が、味わって観賞し、ゆっくりと語る。 「人はもろい。たわいもないつまずきで、すべてを狂わす……」 『声々』は去った。ペテールが急いでフランソワの額にハンカチを当て、部屋から連れ出そうと必死に彼の脇を担ごうとする。だが混乱したフランソワの膿に塗れた手は、弱くもペテールを押し退けようとし、脇の下に肩を入れるのを邪魔する。手伝おうとグラスが手を伸ばした時、ペテールがフランソワを巧く誘導して立ち上がった。 「『衝突』が始まる。早く行きなさい」  ローランスが背中を見せたまま言う。  エリザがふたりのためにドアを開けると、部屋の中にさわやかな解放感が生まれた。心配した顔で彼の背中を見送っていたが、エリザはシモンを思い出し、ドアを閉めた。  ガチリとドアが閉じた音を聞き、ローランスはまた言った。 「執着するな。彼のためにも、彼を忘れ、力・力・力の追放のみを祈りなさい」  横で聞いたエリザは戸惑いながら胸の前に十字を切った。ローランスの憂慮な態度のせいか、あるいは文学的に言えば楽園から離れた人間の本能が危急に騒ぎ立てるのか。部屋に流れ込んださわやかな解放感も、元の息苦しい緊張に変質されていくように感じた。 「グラス君、どう思う?」  ローランスが質問する。  儀式の最中は透明になろうと決心していたグラスは黙っていた。  少しずつ下がりだしたように目に映る天井をグラスは見上げる。廊下でフランソワが唸っているのが気になったが、ここは会得者のローランスに従った方が無難だった。  そして『衝突』は襲いかかった。  ベッドの向こうの窓に重ねて打ち付けられた合板が轟音とともに吹き飛び、粉々に砕けた木片と塵とがシーツや床や少年の頭に散らばった。空中に滞る塵に外から射した光が筋となって浮ぶ窓辺に、グラスは踏み出して向かい、塵を渦巻かせ、空いた隙間から外を窺った。  まぶしい光を手で遮って見ると、表の門の前に、猟銃を持った男が立っていた。男はグラスを見上げて、儀式をやめろ、と叫ぶ。 「何者だ!」  グラスが狭い窓から大声で誰何する。 「割拠の一端を負う者だ!」  農夫のように体格のよい男の顔は帽子の影になって見えなかった。よく観察しようとグラスが注目したとき、おもむろに男は銃口を向けた。グラスは咄嗟に身を隠す。その直後、窓が砕け、木の粉や釘やガラスが飛び散った。顔面を防いだ手のひらに鋭利なガラス片を受けたグラスは歯を食い縛ってしゃがみ、手の込んだパスタのような波状の断面をもつガラス片を、思い切って引き抜いた。ローランスは首に掛けた紫のストールを取ってグラスに投げる。グラスは勢いよく噴き出す血糸を抑え込むようにしてそれを巻きつけた。  横でエリザが窓から覗く。男は鉄砲を肩に担いで門の前をうろつく。そして突然に癇癪を起こし、金属棒の柵を編み上げのブーツで蹴りつけた。口元で両手の指をわななかせて動揺するエリザに代わってローランスは窓から男の姿を見た。 「警官を、呼びます」  震えながらドアに向かうエリザをローランスは振り返って呼び止める。 「いま出ていった牧師たち以外にも人はいるな?」  エリザは頷く。 「おかあさまが」 「ほうっておいても呼ぶだろう。あなたの祈りは真剣だ、欠けられると困る」  ローランスはグラス、エリザと順に見る。 「いいか諸君、以後、窓には近づくな。力・力・力の追放のみを神に祈りなさい」  ローランスはシモンの正面に回った。グラスも立ってそれを追う。グラスはローランスから指示を受け、悪魔祓いに効果があるという祈りを唱える。 「大天使聖ミカエルに向う祈り……。大天使聖ミカエル、戦いにおいて我らを護り、悪魔の凶悪なる謀りごとに勝たしめたまえ。天主のかれに命を下したまわんことを伏して願い奉る。ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタン及びその他の悪魔を、天主の御力によりて地獄に閉じ込めたまえ。アーメン」  力・力・力は悲鳴を上げた。仲間の助けを求めるように頭上に伸ばした手は痙攣し、空中で何かに弾かれ手首を折り、肘を折り、肩が脱力して胴から垂れ下った。虫のように乱れ動いていた裸足の指先は、踏みつけられたように床に潰れて黙り込む。背中からベッドに倒れ、不自由そうに首を動かして状況を見極めようとする力・力・力の焦りの目は、ローランスの切った十字に失明した。  窓の外で騒ぎが始まった。通りに銃声が数回響き、犬が吠える。女性の短い悪態の直後に車が急発進し、煮えた油のような空気が部屋に流れ込む。  両目に皺を寄せてしかめる少年の汗で光った額に、ローランスは右手を置いて命じた。 「シモン・カステロウの体内より出て行け!」  少年は胴を激しくくねらせ、頭を振って手から逃れようと抵抗する。ローランスは彼の頭を鷲掴むように押さえて繰り返す。 「シモン・カステロウの体内より、今すぐに出て行け! 痕跡や卵を残すことはならん! フランソワ・カステロウの内においてもだ!」 「フランソワは……」  うまく動かぬ体を放棄し、力・力・力は表情の失われた顔から口だけを操る。 「親友と己れ自身を裏切り、そしてその罪を告解していない……。我々は、貴様たちの神から使わされた『死神』である。罪あるものに罰を与える、悪しきを砕く、世に変化を広める者を打つ、匿名の仮面と正義の名のマントと弾劾の鉈を携えた、その執行人。神の力のひとつ。貴様たちが神の祭司であるならば、我々に協力せよ」  ローランスは少年の額に手を置いたまま身動きをとらず目をきつく閉じ、外界を拒絶して内に集中していた。ローランスは悪霊にも負けぬほどの早い口調で止めのない言葉の鎖を作り続ける。  力・力・力はローランスに憤り、脅す声の響きでグラスに命令する。 「貴様が主の真の祭司であるならば我々に協力せよラエリネック神父! この初老の喉頭を潰せ! 貴様なら一撃でできるはずだ!」  聞いてエリザが子どものようにグラスの袖を掴んで縋った。 「心配せずとも」  高まる鼓動が袖越しにでも伝わらぬよう、透明に徹するグラスは十字架を掲げて彼女の手を解く。動揺する瞳をまぶたに隠して、見つめるエリザから、彼の敬うローランスから離れ、ベッドの側面に行く。 「主の御力が汝を滅ぼす。主の十字架が汝を追い回す。どこに逃げようが永遠に」  掲げた十字架を弧を描いて少年の胸元に下してグラスが唱える。  それをきっかけとしてローランスが目を開け、足元に置いていた聖書を左手で拾いあげる。無造作に開いたページを朗読する。 『けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか。わかっています。神の聖者です」。イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。人々はみな驚きのあまり、互いに論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教えだ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」』  聖書を閉じ、ローランスは右手に力を入れた。 「出ていけ。力・力・力。お前にはもう、操るべき体がない。力なき悪霊よ。お前の無力さに、お前を送った主人も、すでに気づいている。地の底からの力添えがないのがそれを示す。戦力にならぬお前は、切り離されたのだ。力・力・力よ、もうお前が私たちに逆らう理由はない。即刻、立ち去れ」  グラスは十字架の先を少年の胸の中心に押し付けてローランスに助力する。だらしなくのびた少年の体はびくんと痙攣し、彼の下から出たシーツのうねりは水環のように円に広がり、垂れた端を揺らせて消えた。  その横でひざまずいて祈っていたエリザが顔を上げて悪霊に尋ねる。 「あなたのほかにも、私の子に取り憑いている悪い霊はいるの。教えて」  寝台の上から疲れて弱った声がした。 「同志の名はしらぬ……ガキの中には……、……最も強い壁……うたう女……我らを使わされた主人……そして……ヨンピイル…………我々は負けん、負けん、負けん……!」  突然、少年の目が開き、瞳の奥が絞られた。視点のあった目でローランスの顔を見て嘲り、額に伸ばした彼の手首を掴むと、造作なくそのまま後ろへ放り投げた。ローランスの体は寝台の上を舞って反対側の窓枠にぶち当たり、床に落ちる。  血の気を失ったエリザに対し、平気だと、顔を横倒したままのローランスが床から木屑にまみれた片手を挙げる。グラスが飛び出しローランスの肩を持ち上げる。 「大丈夫さ。体を硬張らせてなかったからだ」  力の尽きたローランスの体を肩に預かり、グラスはシモンの背に向いた。  ゆっくりとローランスはシモンの頭に手を置く。 「お前では、私を負かすことはできない。神の胸当てを付けるエクソシストには、効かぬのだ」  シモンの頭を上から押しつけるようにして、いま一度ローランスが想像し、解き、命令した。  単独では何もできぬ固まり。何かに寄り添わなくてはいられない『力・力・力』。 「イエス・キリストの御名によって命ずる。シモン・カステロウの内より、去れ!」  天井の裸電球が弾ける。  一瞬、部屋に異質な気配が生じたが、すぐに窓から流れこんだ新鮮な空気にかき消された。  外には青空の一片がのぞく。  ローランスは眉を持ち上げて愛敬のいいを顔を見せた。気が抜けて床に座り込んだエリザはベッドに擦り寄り、倒れた少年の額の汗を、めくれたシーツで拭いてやっている。  グラスは部屋を見回し、ためらいながらも、だるい腕で髪をかきあげた。 ■12  アンリは、机の上の薬品を一品ずつ、丁寧に保管箱へと詰めていく。  フランソワはその様子を隣の椅子に座ってずっと見つめていた。この隣の能天気な薬剤師の手つきは妙に慎重だった。何も印刷されていない白の箱を、つまみ、持ち上げ、手首を回し、置き。口づけのために恋人の顎を支える時のような、恐ろしい病原菌の入った試験官を目の高さに運ぶような、あの妖しい指の動き。この男は私たちに隠し事を持っているのではないか? この男は信頼の置けない、裏切り者なのではないか? フランソワは怪しむ。とうとう男は鼻歌を歌い出し、最後の茶色の瓶を隠す。そして言う。 「前の通りにカフェがありましたね。夕方までのつなぎに行きませんか。ねえ、フランソワさん」  悪魔の下僕、お前など地獄へでも墜ちてしまえ! フランソワは呪った。 「フランソワさん?」  フランソワはアンリから視線を逸らして目頭を強く締付けた。 「ええ。行きましょう。あの店のメリメロは最高ですよ。タルトに乗せた果物は、店の主人の兄の農園の採れたてのものを使っているそうです。その実りの味、助力して頂いているあなたに、紹介しない訳には、いきませんでしょう。そう、特に、あなたには」 「フランソワさん?」 「……ああ」  明日もまた悪魔祓いは続く。それを思うと、フランソワは絶望的な気分に陥った。  話しながら客間にローランスたちが入ってくる。ローランスは振り返って廊下に見える制服の警官に、「協力は惜しまない」と言った。警官は頷いて下がる。  ため息を吐くとともにソファーに座ったローランスの姿を見てアンリが冗談っぽく言う。 「神父さま、投げ飛ばされたそうですが、骨も折れてらっしゃらないというのは神様のお恵みでしょうか?」 「どうだろうな」  気にする様子もなくローランスが答えた。 「じつは私も以前似たようなことを経験してましてね。バイクの運転を誤って対向の車にぶつかって標識のパイプに弾かれてそのまま脇の柵を越えて山脈の谷に転がり落ちちゃいましてね……。いやいや、空腹時は運転するものではありませんなあ」 「聖職者にその態度は!」  ペテールが瞬間的に激高する。構わないのだとローランスがなだめた。 「そうだ神父さま、前の通りのカフェに行きましょうよ」 「ああ、いいとも」  調子をアンリに合わせて、ローランスもソファーから立ち上がった。  小さなテーブルを二つ寄せて、ローランスたちはそれを囲んだ。通りに行き交う人はまばらで、かわりにカフェは学生たちで繁盛していた。落葉の溜まる路肩に停まった運搬車から、作業着の夫婦がカフェにやってくる。真っ先に気づいたウェイターの青年が折畳みのテーブルを広げ、自分の客にしようと愛想よく誘う。 「ショコラを」  テーブルで最後の注文をグラスがすると、それを受け、傍のウェイターは背筋を伸ばして戸の内に向かった。グラスは脱いだコートを椅子の低い背もたれに掛ける。儀式の部屋を暗闇だと意識しなくなっていた彼の目には、未だ外の光はまぶしかった。 「前の、力・力・力という悪霊」  グラスが口にしたその名を聞いて、フランソワがあからさまに身じろいで震えた。椅子を倒しかけた彼を横のアンリは不審そうに見る。グラスはウェイターの消えた戸に視線を向けながら、そのまま話を進める。 「少年の内には『最も強い壁』、『うたう女』、そして『主人』が居るといいます。当然、負者の言葉には疑いが必要でしょうが、これが事実なら、戦いはあと三回も必要です。三回。一回目でこの有様、三回も保つとは思えませんが」  エリザが落胆のため息をつく。それを見たペテールがローランスに目配せする。意気込むペテールに感心してローランスが頷く。 「エクソシズムを知る私から、君たちに理解してもらいたい事がある。シモン少年に取り憑き苦しめる者は、『力・力・力』、『最も強い壁』、『うたう女』と名乗る悪霊どもなのだが、我々の立ち向かおうとしている相手は、四つのそれぞれの人格ではないということだ。では少年を侵し、奈落に引き摺り込もうとする我らの敵とは何か? それは、神に逆らう勢力だ。これからの儀式、何かしら名前のついた人格と戦うのではないぞ。我々の追放すべき敵は、軍勢『サタン』唯一。我らの内の敵」  言い放つローランスにペテールがつぶやく。 「『サタン』と聞くと、私としては悪霊などよりも強大な敵に思えます」 「聖書にある王者としての赤い龍ではなく、『サタン』の名の下に一致する存在の事さ……。具体的な儀式の運びとしては、悪霊それぞれには構わず、一気に決戦に持ち込むつもりだ。少年の内の総卒者『主人』との対決に」 「勝てるのですか?」 「それは」ローランスは全員を見回す。「私の言葉への、君らの理解度にかかるんじゃないかな」  ウェイターが持ってきたコーヒーとケーキを目の前に受け、ローランスは気楽に言った。儀式の余韻に高揚されているようだと、グラスはローランスの横顔を見つめる。  関係がないとでもいった風によそを向いていたアンリが菓子に手を伸ばす。一番大きな苺の乗ったタルトを口に運び、新鮮の佳味と蜜の香りに感嘆の声を洩らした。微笑ましそうに見つめるエリザにもアンリは勧める……と、菓子皿を示した手のタルトから落ちそうになった果実をあわてて口で啜る。 「なるほどこれは」  頭をしきりに振ってアンリが称える。評価をフランソワに伝えようと彼の背中を叩くが、フランソワは別人のように皺に埋もれた目鼻立ちで、表情なく放心していた。注目を感じたフランソワは、皮の伸びた腫れぼったい目蓋を開き、言葉を失うアンリやテーブルの各々に、黄に変色した目玉を見せる。 「わたくしが、以後の儀式に立ち合うことは、できないでしょう」  その目にはもうサングラスは必要ない。 「ええ、よろこんで」  少年の父、プティジャンが笑顔で応じた。  アンリとエリザの後ろでは、ペテールが訝しんでいる。  トゥールーズの街まで車を出してくださいませんかとアンリが頼んだのだ。窓が破れ、テーブルが折れてしまった。補修材と代わりのテーブルがいる。 「シモンの様子はどうですか」 「まもなくですよ。皆でハイキング、楽しみですねえ」 「まあ」エリザが微笑む。  ペテールは思い出して、束ねていた髪をスーツの背に流す。肩の力を抜いて、廊下を戻るプティジャンやアンリたちの後に続いた。  艶のある赤いオープンカー。磨く暇など彼にあるのだろうかとペテールは思う。いや、その管理のために、会社の経費で業者を雇っているかも知れない。 「これは地位ね」とペテールは呟く。「家系で得た役職ね」  そのオープンカーの静かなエンジン音。後部座席で後に首を倒し、ペテールは見上げる。  ――フランソワの黄色に変色した眼球。  白い天井の車庫を抜けた車は、青い空に向かって真っすぐに伸びる街路樹の通りを走る。  ――だが。  髪を梳く風が心地よい。振動が、体の硬直を解いていく。  あの部屋の外には、この日常が続いている。急には、この日常には戻れないみたい。ペテールは起きて前方を見る。  隣の席で、さかんにこの車の良さを誉めるアンリと、彼の心を察せず、ハンドルを握り続ける笑顔のプティジャン。 「アンリさん、運転免許証はお持ちかしら?」  彼女は口の端を上げて、笑った表情を作る。  しばらく経つと、ペテールの初めて見るトゥールーズの通りが現われた。看板、建物、塀、辺り全体が緑色の一角。  プティジャンが車を停め、車体を回ってエリザの待つドアを開ける。ペテールも澄ました顔のアンリに笑顔で礼を言って、シートから道路へと降りた。  辺りは背の高い建物ばかりで太陽の光は届かず、トゥールーズには珍しく寒い通りだ。その建物のひとつ、ウインドウにソファーを並べた家具屋へと、連れられて入る。 「頑丈なテーブルが必要ですわ。いいえ、年代のあるものでなくても」 「こちらなんかどうです」とアンリが入り口傍の机に座る。「これ見て下さい、脚の太さ。これなら、あの机みたいには弱くありませんよ」 「頑丈ですが……大き過ぎますね。それに三脚の椅子との揃い。どこかのご家庭で使って頂きましょう?」  カウンターで店主と話をしていたプティジャンが皆を呼ぶ。 「良いものがあると」  店の奥から運ばれて来たテーブルは、相当に汚れている。布で拭いたのかも知れないが、詰まった埃は繋ぎ目や傷を浮かび上がらせている。 「二十年近くも階段の手摺りを支えていた頑丈な小テーブルです。ご希望でしょう?」  アンリが天板に手を掛ける。体重を載せるが、ぐらつきもしない。  腕を組むペテールが頷く。 「中央のこの窪みは研削機でお消しします」 「外見は構わないと牧師先生はおっしゃる。すぐに運んでくれ」  プティジャンは店を見回す。優しい顔で入り口のテーブルに見入っていたエリザに寄る。 「お気に入りかい?」 「ええ、そうね……。あなたとわたしと、シモンと。このお洒落なテーブルで」 「うん、いいね」  プティジャンが店主に追加を示す。 「これはこれは、ありがとうございますカステロウ様。お陰で階段が修理できます」  カウンターでサインを済ませたプティジャンが、緩やかな笑顔でエリザの夢を聞いている。  傍のアンリが呟く。 「……」  ペテールには聞こえなかった。 ■13  迎えにきたシスター・ジャンヌは、屋敷の敷地に停まっていた赤いオープンカーを羨ましそうに見つめていた。帰りの車の中、ローランスは何も言わず、哀切そうに瞳を細め、平常な街並や人々を見ていた。シスターはルームミラーで神父の様子を一度だけ窺うと、何も言わず運転に専念する。  グラスは初めて経験したエクソシズムを思い、胸裏に重くのしかかる肉片のような塊の、生あたたかい空気を嗅いだ。  グラスの知る限り、この儀式は、イエズスの許しの愛からもっとも離れた儀式だった。信徒の祈りが司祭の内を通っていく、堅信と婚姻。心の奥に住まわる神の光を感じられる、按手と聖体拝領。だが、主の冷酷な試みのみの、祓魔式。この儀式に神の愛は注がれるのか? 達成の感動はありえるのか? 力・力・力を倒した時、わずか、すずしい風が部屋に舞い込んだだけだ。ローランス神父はなぜこのような儀式に何度も立ち向かう事が出来るのか? 彼には、神の国に導かれる確信があるのか? だとしても、一歩誤ればそこは奈落。さき見た悪霊と同じように、死しても苦しむ者として、永い時を過ごすことになるかも知れないではないか。それとも、司祭は――いや人間は、使命の一言でどこまでも戦えるほど、機械的に強いものなのか。印刷機と紙の仲のように、聖書の言葉を人生に刷っていけるのか? 薄く包帯の巻かれた握りこぶしを、グラスはシートにめり込ませる。  聖書と神学、文学の悪魔論。概念や役割を語られるだけの存在ではなく、独自の視点を持つ者。悪魔の存在はグラスの中で明確になる。だが、神は見えない。頭中の言葉の整えは難渋し、彼の中に闇が広がっていく。  塔の上にいた一羽の鳥が飛び立つ。閉店の札をガラス戸に下げ、店の奥へと人が消える。交差点からこちらの方向を見ていた男性が、杖を振って立ち去る。  信号機の明かりは窓に曇り、車内を赤く染める。あなたのようになりたいと隣のローランスを見、グラスは握り締めていた手を開き、見つめる。  いつしか車は照明の灯る教会にたどり着いていた。 「さて、腹ごしらえだ」  ローランスは気分を変えるように明るい声を出す。笑顔を出せる彼を見て力付けられたグラスもそれに応える。  その日の夕食をグラスは悩みを紛らわすように豪快にたいらげた。儀式の備えに忙しいらしく、食事もろくに取らなかったモントルーのラエリネック神父。来館の日からその姿を覚える給仕のシスターは、満足そうに皿を洗う。 『大体はわかった。思い煩うな、だ』  満腹になると眠気が襲った。  素直にグラスはベッドに入る。  この単純な流れが貴重だろ、モントルーのエルズナー神父よ。  都市トゥールーズはフランス南西部に位置する。パリから遠く北部の華やかさとはかけ離れた文化と歴史を持つこの地域は、地中海性気候に属するために年間を通して暖かい。  グラスは視線を窓の外からカフェのカウンタ席に戻す。隣のローランスはじっと板の節目を見つめていた。 「落ち着きましたか?」  表の通りで突然ローランスが崩れたのだ。彼は地面に膝を突いてしゃがんだ。急に動けなくなったようだった。 「すまない。昔のことを、思い出した」  グラスの知らない時代か。 「もう、大丈夫だ。ほら。来た」  ローランスは目を瞑ってカフェオレを啜る。店の主人が出した紅茶をグラスも飲んだ。 「ん」  カップから首を退けてグラスが小さく声を出した。 「あー」  気づいて細身の主人が頭を掻く。 「おいしくない? 滅多に注文されないから、加減が分からないんですよー、バカでしょー?」  グラスが微笑する。 「おーお、神父さま方!」  店の入り口の席から順に回ってきたボロの帽子を被った老人は、胸のポケットから手帳を取り出した。 「なにか、詩でもお読みしょうかねえ」  じいさん今日も元気だな、そう言う店の主人におうよと返して老人はまたポケットを探る。 「あんりゃー鉛筆がないぞー」  ポケットの下から一本指を突き出して、穴が開いとったとおどけてみせる。 「楽しくいこうや神父さま方」  席を勧めたグラスの横に座り、唸りながら手帳の詩を吟味して立ち上がった。  俺は知っている、  見てきた、  深い森を。  あの死体の溢れた堀を。  あのとき俺は二十歳だった。  俺はバイオリンを捨てて走り出した。  俺は驚いた。森の中に小屋があったのだ。  俺はそこに住み着き、口笛を吹いた。  銃声なんか糞くらえ。  食べ物の準備などしてなかったから、すぐ死ぬものと思っていた。  だが違った。  毎日、木こりが俺に食べ物を分けてくれた。  誰もいないと思っていたが、半月ほど同棲していたようだ。  だが木こりは村へ帰った。  俺も黙って街へ帰った。  所詮は一人では生きられない。  一人の奴は、生きているつもりなだけだ。  もっと歌をうたえ。  反響のしない場所で。  やってみろ。  できるものなら。  なんだかわからないぞう。  わー。  グラスは誰よりも大きく拍手した。 「こんな雰囲気のカフェははじめてだ!」  目を薄めているローランスが笑う。 「グラス君、珍しいかい? 私は毎日、目にする光景だぞ」  これもまた非日常か。  トゥールーズの町並みを見回すグラスは、進む先に街頭販売の黄色い手押し車を見つけた。二人がそれに近づくと、その横から売り子の少女が現われた。 「焼きたてのおいしい栗はいかが? 緑目の神父さん」  彼女はふたりの前に出て、彼らの歩調に合わせて後ろ向きに歩く。 「ねえ神父さん、買ってちょうだい。私、お金を貯めて、あの車に屋根を付けたいの」  両手を後ろにまわし、頭を傾げてぎこちないしなをつくる少女を見て、グラスは笑った。今は気分が良いのだ。立ち止まってワゴンを覗く。 「ああ、甘そうな栗だ。頂こう。いくらだい」 「このスコップ一杯で8フランよ」 「よし、お願いする」  熱い栗の山に少女のスコップがねじ込まれた。風に負けずにあまい匂いが湧いてきた。 「ここは君の店?」 「ええそうよ。おじさんからもらったの」  力んだ声で少女は話す。 「あたしね、いつか、通りのお店も、もらう約束をしてるのよ」 「それはすごいな、その日が楽しみじゃないか……」ああ君、底の焦げはいらない、とグラス。 「大丈夫、失敗しちゃった分はお客さんには出さないわ。だって、また買ってもらいたいもん。はい」 「そうか。ありがとう。お代だ。それに、これはお駄賃だ」  グラスは笑顔の売り子に軽く手を振った。  愉快な日だ。  体のあぶらを石けんで流し、貸し付けられた部屋で髪をタオルで拭いていると、ドアがノックされた。グラスは急いで服を着る。ドアの前に立っていたのは二人の司祭。 「構いません、どうぞ」と二人を招き入れ、部屋の奥から椅子を出してきて、自分はベッドに座った。  机の前の、髪の薄い色黒の中年司祭が言った。 「レマン湖畔では、ラエリネック神父の名は知れ渡っているそうですね」 「とんでもない。誰かが角笛でそう吹いているだけですよ」 「ご謙遜を」  右の、グラスと年令の近そうな司祭が表情を緩めて言った。 「書類を扱う役として、ヴァティカンより声が掛かったと聞きます。多言語を理解できると。学校では努力なさったのでしょうね」 「私はイエズス会士ですよ。それと、さぼって楽しい小説を読んでいただけのことです」 「当教会の信徒も保養に参ったとき、あなたの名前を聞いたそうですよ」 「そろそろ、困りますが」  顔を隠すように後ろを向いて、グラスはタオルをベッドの端に掛ける。 「……ときに神父、ローランス神父の評判はご存じか?」  グラスは振り返る。色黒の司祭の口調には厳しさがあった。本題か。 「数年前、彼が当教会の主任として迎えられる以前、ローランス神父はアルスター地方で紛争に参加していたと。この好待遇の裏には、ムッシュ・ボルドロンとの取引があったという噂話があるのですが。その件について、何かご存じないかと」  若い司祭が言う。 「破廉恥な話は聞き逃せません」  唖然とするグラスが気を取り戻して反論しようとした時、若い司祭がまた言った。 「あなたとローランス神父との付き合いが親しいものなのは分かっています。ラエリネック神父、ローランス神父の経歴には複数の疑わしいものがありますが――例えば神学校で教鞭をとっていた後、西アジアに教会建設に赴任していたことになっていますが――それらは偽りのないものですか?」 「なにを!」  グラスは憤ってベッドから立ち上がった。 「神学校教師だったのは間違いありません。私は彼に教えられたのですから。またあなた方が疑わしいと思われるでしょうアジア赴任の期間も、確かに彼は放浪などせずしっかりと務めていました。私は彼に連絡を取る時、アジアに手紙を出していたのですよ!」 「事実ですか」 「信じないと。ならなぜ私に!」  目の前の二人の司祭は困惑して互いに顔を合わせる。 「自分たちの主任や司教を信じられないなどとは、それでもあなた方はカトリックの司祭ですか。……なぜ未熟な私に、このようなことを言わせる」  色黒の神父がグラスを見上げる。 「いいや、ただ我々は、信頼に値する証がほしいのです。エクソシストは我々には無知の領域。人の居ぬ部屋で胸を押さえて苦しみ、ミサの説教に黙示録などを持ち出すあのローランス神父に、我々も信徒も異端の空気を感じ、否応にも不安が積もります」  彼らは部屋から出ていった。グラスはベッドに仰向けになって、親愛の神父を取り巻く状況に、憂欝に天井を見上げる。  グラスが神学生だった頃……、昔も、ローランスは明るく快活で、学生たちから悩みを打ち明けられてよく相談にのっていた。聖書の理解が他の学生より遅れ、焦っていた当時のグラスに、ローランスは示唆してもくれた。神学校の中で最も信頼された人物。当時のローランスを知る者がこの現状を見たなら、どう反応するだろうか。  だが――確かに一時期、ローランスと連絡が途絶えたことがあった。その期間、彼がどこで何をしていたのか、グラスは知らない。  前の廊下から二人の足音が遠ざかり、階段に消えた。グラスはベッドから身を起こし、上着を羽織って部屋を出た。 「入りなさい」  ローランスはグラスを部屋に招き入れる。  部屋の照明は抑えられ、机の上に広げられた文書や綴りにだけ、窓辺のスタンドからの光が集まっていた。赤いランプを点す床のレコーダは、何かの会話を流している。 「今回露になった力・力・力の特性を持つ悪霊について報告書を書いていた。司教はもちろん、ヴァティカンの研究家やパリのエクソシスト達に報告するためにな。それと、『指人形』と名付けた自説への意見を伺おうと思う。似た言葉や概念を、他の負者から聞いた覚えはないかと……。そうだグラス君、力・力・力が現われている間、何か気になった現象はないかね? どんな事でもいいが」 「……」 「面白いことを教えてあげよう。今日の記録に顕著に出ていた。負者というものは、神の勢力に含まれる我々を騙そうとする時、言葉を細かく区切った、苦しむような息を切らす喋りになるのだよ」 「……」 「覚えておきなさい」  グラスはしばし考えた後、机に向かってペンを持つローランスに答えた。 「初の悪魔祓いでしたので、この悪霊の個性かは知りえませんが。最後、儀式は、ただ風が吹きすぎるように、障りなく終わったように思います。途中までは激しく抵抗していましたが」  黙ったまま椅子を回して振り向いたローランスは、グラスをしかめた顔で見る、がペンを机に転がして笑った。 「そう思うかい?」 「はい」 「深く追うのは禁物だよ。私たちは人間でしかないからな。譬えれば、奴らは保菌者さ。わずかでも噛まれれば、そこからペストが流れ込む」  ローランスの、自分の手首に噛みつく仕草。……ゆっくりその手を下げ、顔から笑いを消す。急にその瞳に、冷厳に、スタンドの光を映して言った。 「フランソワ・カステロウさんをどう思う?」  レコーダのスイッチが切り替わる音。スピーカーから儀式の記録が聞こえる。  今日の昼、通りの日差しにも暗く映ったフランソワの顔。眉を一瞬震わせ、噛み締めて片頬をつりあげるグラスは、言葉としては何も言わなかった。  ローランスは耳の下を掻きながら、横目で半端な書類に目を落とす。 「彼を導くのは私の仕事だが、私に事情ができた場合は、他のエクソシストが彼のことを引継いでくれる。……そのようになっているけれども、よければ君が彼の治癒を継いでくれ。レマン湖畔のモントルーなら、保養のために滞在しやすい環境が揃っているだろう」  眉間にしわを寄せて考え込んでいたグラスは顔を上げ、両手を組んで主に祈るローランスの淋しい表情に言った。 「何をそんなに心配します。ローランス神父が弱気になる要因が? 教区公認の専門家であるあなたが、容易に悪魔に踏み倒されるというのですか? 悪魔祓いは今回で7回目。超人的なあなただ、士気が枯れるはずがない! あなたの悪魔祓いの全儀式と全結末とは、私が漏らさず知っています」 「士気……かい?」  先のふたりの司祭から聞いたローランスの弱さ。その身丈の小ささ。 「今日はもう遅い。寝なさい」  薄く目を開き、ローランスが笑って言った。グラスは従い、こぶしをきつく握りしめて彼に背中を向ける。 「グラス君、明日も、忙しいぞ」  部屋の入り口にグラスが立ったとき、奥の暗闇から、はりきった声がした。グラスはその空元気とも思える声を聞きながら、ゆっくりとドアを閉める……。 ■14  部屋を密封するような重々しいドア。  次の儀式。再び感じる悲しさ。日常との絶縁だ。  空気が隅々までに振動を伝える会場を作り出すと、その雰囲気を察し、立会人たちを囲んで多くの歓声、野次、声々が沸き起こった。  喉を整える空咳を一つに、中央に立つローランスがその場にいる全ての者に儀式の続行を告げる。第二幕。声々も徐々に静まり、三度呼吸をする頃には一つとして聞こえなくなった。  時刻は午後の8時。予定が大幅に遅れ、夜間に悪魔祓いをすることになった。グラスは腕時計から目を外す。  グラスはローランスの左に立っていた。新しい寝間着をつけられ、埋葬される死体のように横に伸ばされる少年にではなく、グラスはその台のベッドに視線をおいていた。  朝。果てしなく永い夢を見たような不思議な気分でグラスは目覚めた。これは何か儀式と関係があるのだろうか。報せなのだろうか。わからない。ただ朝食のクロワッサンが、途中喉に詰まった。 「ラエリネック神父」  横で数回ささやいたペテールにグラスは顔を向ける。 「ラエリネック神父、何を考えてるんです」  ローランスが聖書を読んでいる。 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい』  グラスは途中から朗読に参加した。 「しっかりして下さい」  隠れることは出来ないとサタンが知ったのだろうか、または顕現の癖が付きでもしたのか。聖書朗読に、反応はすぐに表れた。寝台の上の、砂袋のように横たわったままの少年の体は飛び、大きな音を立てて暗い床に落ちる。  ローランスが指示を出し、グラスが少年の肩側を、ペテール、エリザがその足を別々に拾い上げ、シモンを持ち上げようと力を入れる。 「憑依重力か」  背や足が上がっても床に残された腰だけは素直には持ち上がらず、彼の体はふたつに折れ曲る。それを引き上げようとする三人の体力の消耗を考えて、ローランスが言った。 「一度離れなさい。祈りを打つ」  すると少年の口が動き、詩を読むように舌を巧みに回して言った。女の高い声だった。 『シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された』  シモンが身体に付く三人を蹴飛ばし頭突きして振りほどき、腰を使って跳ね起きて、床に片足を着く。 「ふんだりけったり、したりやったり。一緒に歌うのよ、司祭たち!」 「去れ。用はお前の主人にある。お前に構う気はしない」  ローランスは叱り付ける。 「だめよ、物事には順序があるの。主人に会うには、使用人に用件を伝えるのよ」 「名は?」  片足でふらふらとバランスを取る相手をローランスは見据える。 「言うわけ、ないでしょ。王国の者よ、司祭さん?」  夜には負者の気が高ぶる。それは夜が負者のものだからではなく、闇に対して人間が臆病になるからだと力説する者が昔にいたが。  尻もちをついたまま呆然とシモンを見上げる三人を言葉で立ち上がらせ、ローランスは狭い天板のテーブルから記録簿を取り、ペテールに渡す。 「この類の霊の攻め方は知っている」  上擦る声、口を窄めた話し方、鼻歌と冗談。十数年ほど前の儀式、突然目の前に現われた悪霊と雰囲気が似ている。 「あたしは歌うのよ! あんったたちは無能、化膿、滞納、あたしの心は誰のもの? 龍のもの!」  気の滅入る狂った歌に口を開けて抜け歯の多いのを見せびらかしながら、それはベッドに腰掛けた。 「そんなに気に入らないのかね、我々が?」  ローランスは大きく肩をすくめる。立会人たちが取り囲むベッドで発声の練習をする悪霊が、その上に立ち上がり、片手を胸に当てて歌った。 「呪い、呪い、鋼の中の呪い。あたしを蹂躙したその象徴、あたしを見上げるその憎き顔、笑い、笑う、権力に笑う、その憎き顔。伏せて懇願すれば許さない事もないの、あたしは赤、あんたを赤に濡らしているもの」  グラスが横で木製の十字架を悪霊に向けるのを見て、待て、とローランスが止めた。 「まだ、いい。……質問がある、歌の上手な悪霊よ」 「悪霊なんて呼ばないでちょうだい!」 「ああ悪かった。……君の美声をシモン少年も聴いているのだろうな。彼も、やはり聴き惚れているというのか?」 「とうぜん」  寝台の上、グラスと同じ目の高さに立つシモンの顔が、外から圧迫されるように大きく歪んできた。土色の頬の肉が後退してえらが張り、ひび割れた小さい唇が横に無理に引き伸ばされ、めくれる薄皮を伝って血が滲み出る。 「あたしは美貌の主なの。男はあたしの前に片膝を立てて座り、あたしのために手柄を取ることを誓うわ。あんたたちもそうでしょ」  奇妙な顔を小さく傾げて、悪霊が正面のグラスとローランスに笑いかける。 「美貌の主を自称する悪霊……」 「だからそうは呼ばないでって!」 「もとい、そこの、ベッドの上のお前よ。時が来たようだ」 「時? それがあんたの貢ぎ物?」 「報せに来たのだ。まもなく私が……その、ベッドに立っている、シモン少年ではなく、その中に巣くっているお前を送り出すのだと」 「なあに、それは?」  興味を持った悪霊の目が大きく開く。 「……名前がわからないと話し辛いな」 「あたしの名前は『鉄の処女』。どう、すてきな名前でしょ。話してみて、あんたの贈り物」  背後でペテールが記録を取る音がする。 「では鉄の処女よ、お前に聞く。お前はなぜシモン少年を悩ますのだ。理由がなければ答えなくてもいい。お前はなぜ歌うのだ。お前は誰だ」 「あたしはあたし。手を引かれてやって来たの、この居場所に。あたしは何も知らないお馬鹿だったのだけれど、知恵の主がたくさんのことを教えてくれたわ。怒りと呪いが私の心を癒してくれる。人は悲鳴をあげる時、とっても高くて素敵な声を出すの。私はそれに聞き惚れてる。試してみる? フランソワみたいなのを」  天井の照明とテーブルに置いたライト。昨日よりも若干明るい部屋の中央、しなやかに足を畳んでシーツの上に座り、悪霊は誘惑するように手招きした。  エリザは何も言わず、タオルを両手で引裂くように握り締める。グラスが少年の頭上に十字架を下ろして言う。 「フランソワ氏を冒涜することはイエス・キリストとその司祭である我々が許さない。鉄の処女、聞け。無駄な口は利くな。言葉を汚すな」  聖別された十字架を押し当てられ、仮面のような少年の顔から眼球をいっぱいに上げて、寄り目がちに悪霊が見上げる。 「あらあ、ラエリネックさん。あんな齢の弱い男を庇うっていうの? なぜ? 甘いわ! 喉に絡み付いて咳が出るほど甘いわ! あの男は馬鹿なのよ。過ぎ去った事を怖れてそれを隠しているんですもの、つまんないつまずき一回しただけでさ。馬鹿なのよね、つまり。馬鹿に衝撃を受けるのも馬鹿なの。馬鹿に育てられた人も馬鹿よ。馬鹿に構うのもね。ラエリネックさん、というわけであなたも馬鹿よ。守るべき人を間違えてるなんて、いい加減な目をしてるわ。そう、いい加減よ、その青緑色の目なんか! 湯加減、手加減、匙加減、さしずめその目はいい加減!」  角張った額に十字架を当てられたまま、鉄の処女は湯気をあげ、平静を装うように一つ一つの言葉に大げさな挙動をつけて話し続ける。 「実は、フランソワは馬鹿だったの! 悩まないで! シモン坊やが暴れだしてから屋敷には使用人は入れていないのだけれど、あの男はそれに馴れていないから、とんだヘマをやらかしたの。去年よ。ん? 知りたそうなお顔ね、エリザママ。あわてて隠さなくてもいいの。教えてあげるわ。それは……」  グラスの握る十字架にローランスが手を添える。小さく咳き込む悪霊は、緑と赤の斑の目を上目使いにしてローランスに抗議する。 「邪魔、しないで……ずるいわ、その力は。その力に頼るなんて」 「お前も主人の力に頼っている」 「あたしを責める気? 馬鹿がいるのに。フランソワは馬鹿なのよ。使用人が当然と思ってるの。ぼけた今もよ。自分で出来ることもしない……。……あんた、つよい……。……それにしても、カステロウ家のフランソワもエリザも、たいして儀式の役には立たないわ……。エリザママ、お聞きなさい。このシモンの体の父、そしてあんたの夫のプティジャンは、なんで、ああまで私たちに影響を受けていたのか。知りたいでしょ? その秘密はね、あんたが、このシモン坊やにばかり構うからよ! 信じられない! 愛して愛されて抱き締め合う関係よりも、人間未満の、いくらでも作れる子どもの方を大切にするなんて! 肉の情? なにそれ? そんなのあったかねえ? それでも、その割りには役立たず! さすがは金持ち出し惜しみの一家だよ。それに比べると、イエズス会士、ラエリネックさんのお噂は……」 「私を知っているのか?」 「おっとっと、十字架を握る手を緩めてくれるなんて、噂どおりの親切ね。美人、真剣、無駄遣いなし? 噂の当人、司祭のあんたは節制の人だねえ。スパイ小説一本で満足するんだもの。でも、まだ度が浅いよ。そんなあんたに一番の節制の方法を教えてあげる。それは、恋をすることさ。相手を思えば食べ物が喉を通らなくなるから食費が浮くし、相手があんたの太陽なら夜になっても電灯はいらない。熱い心で過ごしていけば、ガスも薪もいらないっていう寸法さ。どうだい、良い考えだろう?」  グラスはしっかりと十字架を握りなおし、胸の内で、自らに浸透するはずもない鉄の処女の言葉を批判し続ける。 「この種の悪霊は追放しやすい。漏らす情報が多いからな」  グラスに向かい、ローランスは少年の表情の変化に注意を向けながら語る。艶の失せてきたシモンの髪の上、力一杯に十字架を握るグラスの手に力が余り、筋や節や青い血管が、張りつめる肌を破るほどに盛上がる。それに気づいてローランスがグラスの顔を覗き込む。横のグラスは唇を噛み締め、細かく顎を震わせていた。 「グラス君。引け」  前回の失敗に過敏になったローランスがグラスの十字架を奪い取って言った。 「ペテール牧師、神父と交替だ」 「わかりました」  ローランスが樫の十字架をペテールに手渡す。グラスはそれを胸の前に見て、何も言わず、物分かり良くベッドの正面を彼女に明け渡した。 ■15  グラスは渡された記録簿を開き、ベッドの角側に立ってそれを読んだ。箇条書きながら、的確な言葉でペテールは状況を記している。メモ、主立った言葉、状況、『鉄の処女』、レコーダやカメラでは記録できない雰囲気の流れ、『鋼の中の呪い』、会話に出てきた単語の集まり……。……指名でモントルーから駆り出されたグラス・ラエリネックでさえ気付かなかった細部。これは、女性の繊細さというものか? 比較するまでもない、個々の観察力の開きか? 私などが、わざわざ来ることもなかった。トゥールーズには、優秀な人物がいる。  グラスは思い直して十字を切る。ローランスの儀式中だ。悪霊に影響を受けているのか? 嫉妬ではなく、甘え。なぜ周囲が私の機嫌をとらなければならない? 私はローランス神父の単なる補佐だ。それを承知している私が、常に周囲の人物から尊重されていないと不安になると? 何故にそのような感情が湧いたのか? 疑問に思い、グラスはボール紙の表紙に挟まれていたペンを取って忘れぬうちに書き付ける。  喉元のカラーをはめ直し、グラスは立ち位置を変える。立会人たちの影にならず、被憑依者と部屋中が見通せる場所。グラスはベッドを回って反対側のエリザの側に立った。 「成功させます」  少年の母親に一言告げて鉄の処女を見る。 「『ああ、君よ、可憐なるケートヒェンよ。君はなんて美しい。きっとその美しさ故に、数々の宝石は君の瞳にかたどられ、太陽の輝きは君の存在に譬えられるのだろう』……こんな具合に」 「ケートヒェン?」  悪霊は自慢話をしている。 「お前の美しさはわかった。今度はこちらの」  鉄の処女が続ける。 「あたしらの固まりは美人ばかり。おかげで年中、周囲にはご機嫌を取る男ばかり! なんてったって薔薇より百合より美しいのだったから。尊重されてばかり!」  ペテールが言う。 「答えなさい。『固まり』とはどういう意味?」  統一されたものだと傍のローランスが教えた。つまり、一人格を形成する霊の集団。 「それは……?」 「そこの女牧師、あんたの名前なんか知らないわ。答えなさい、だなんて、そんな権威あるつもり?」 「私の権威は、私の背後のイエズスから来ます!」  すました顔のペテールが小瓶から聖水を掛ける。熱湯を受けたように首筋を火膨れさせ、腹を立てて悪霊は加速してわめき散らした。 「知らないわそんな名前! そんな汚れた名前! 嫌いよ、あたしを殺したくせに、その後であたしを説得しようとしてるなんて、そんな卑怯者の名前しらないわ! あんた何様? あたしらを脅す気ね! あたしの可愛い唇を、やっとこで引き抜いたあいつらみたいに、あたしを苛めに来たのね! いいわ、この部屋の雰囲気でわかる、暗いじめじめした場所であたしを囲んで、身の毛のよだつ道具をちらつかせて、押しあてて、笑って、ありもしない汚名を着せて……。あたしは何にも知らないの。本当よ。本当なの。気がつけばここにいたの。さっきまで野原で歌をうたっていたのに……。あんたたちは何? エクソシスト? 立会人? うそよ、うそよ! 何も知らないあたしに拷問する欲呆け司祭と魔女発見業者どもとやることが変わらないじゃない! 『悪魔祓い儀典書』なんて『魔女の鉄槌』と同じよ! 呪われるがいいわ! 呪われるがいいわ!」  鉄の処女は狂って胸を掻きむしる。  息を荒くしてペテールがローランスを見る。 「紐だ」  心得てペテールがテーブルに十字架を置き、手早く綿の紐と持ち替えてベッドに向く。 「あんたたち、あいつらと同じよ! あたしを縛って、焼けた鉄串でとことん殴り付けるつもりだわね!」  鉄の処女が危険を感じ、ベッドの上で興奮する猫のように全身の毛を逆立て、低い音を出して息を吐いた。  ローランスが待てとペテールを止める。 「そんなに私が当てになりませんか!」  肩越しに吐いてペテールは鉄の処女の腕を掴もうと手を伸ばす。  ローランスが怒鳴った。 「主イエス・キリストの御名によって命ずる! エクソシストの指示だ牧師! 引かぬか!」  ラケットの素振りのような音。身を屈めたペテールが、驚いて放した紐の束を床から拾おうとした瞬間。  ペテールは中腰のまま見上げた。  頭上の、ベッドから伸ばされた少年の青痣だらけの美しく白い腕。その先の貝のように艶やかな爪から、切り離されたペテールの髪の毛が、ぱらぱらと舞い降りてくる。ペテールは絶句し、その腕の影に座り込んだ。少年は口を直線に閉じ、赤くも冷淡な目で、ペテールを見下ろす。  グラスが少年の顔を目掛けてノートを投げつけた。悪霊が腕を静かに引き、視線を別に移す隙を見て、ローランスが硬直するペテールの上腕を後ろに引っ張る。  まくれたスーツのスカートから硬直したふとももが現れる。ペテールは震え出した指先で、スカートの端を膝まで押す。 「……悪魔が謀略の限りを尽くすこの世に生きる我々に、我らがイエズスよ、どうか、救いの御手を差し伸べ給え!」  グラスが瞳を閉じ、両手を組んで祈りを唱える。横に並ぶエリザもグラスの祈りを繰り返す。……悪魔が謀略の限りを尽くすこの世に生きる我々に、我らがイエズスよ、どうか、救いの御手を差し伸べ給え……。グラスは顎を引き、祈りを繰り返す。組んだ手を口元に付けて祈っていると、部屋の天井の隅で、かすかに水が流れる音がした。グラスは目を開けて、ベッドの上に仰向けに倒れた少年を見た。横のエリザの肩を叩く。 「まだだ」  少年の横に座って額を撫でるエリザにローランスが警告した。 「まだ追放には至っていません」  そうペテールが言った。グラスは顎を擦って、気丈な彼女を見つめた。ペテールは、エリザの後ろに立ったグラスに気付き、何かと尋ねる。 「勇敢な人だ」  グラスにからかわれたと勘違いしたのか、ペテールは鋭い視線を向け、相手にしまいと頭を振る。 「『声々』が来る」  ローランスが言う。 「その前に備えていた方がいい。ペテール牧師、シモン少年の両手を縛っておいてくれ」  そう指示し、テーブルに手をついてローランスは休んだ。グラスはテーブルに寄って、辛そうな顔のローランスの肩に手を掛けて気遣う。 「痛めましたか」 「近頃は運動をしていなくてね、ちょっと動いただけでこの様だ」  濡れた額を法衣の袖で拭い、ローランスが笑った。 「君は、私を父親のように大切にしてくれるなあ。歳が離れていても、私と君とは、親子ではなく、友のつもりなんだがなあ。私も、そんな歳なんだなあ」 「私には父はいません」 「そうは、言うな。君のお父さんにも、考えがあったはずだ。君の焼くパンは私の好物でもある。君は、彼に育てられたのだぞ。君と私よりも、絆は深いはずだ。恨んでやるな」  ローランスは愛敬ある顔で片目をつぶる。グラスは表情を緩め、ベッド側を見た。  私がしますと手を差し出すエリザに、ペテールは両手で綿の紐を預けた。エリザは手に受け取った紐を見つめ、少年の脂ぎった額に唇を当てる。そして恋しさで目を潤ませてほおずりし、紐の端を持って彼の両手を後ろに、甘えず、緩みなく縛る。 「……神父、さま……神父さま、この子と私は、この部屋で死ぬことになっても結構です。ですけれど、臨終のときだけはどうか、悪魔にまどわされませんで、いられますように、お祈りください」  急に大声で泣き出し、エリザがローランスに伏した。驚くペテールがエリザの前にしゃがみ、床に置いている手を無理に取って、彼女に顔を上げさせる。 「神父は神ではありません。こういうことは、しては、いけません」  目を大きく開けたペテールが一言ずつはっきりと脅す。  ローランスはペテールに場所を譲ってもらい、見上げるエリザと同じ高さに腰を曲げて顔を下ろし、首のストールで彼女の涙を拭いた。 「儀式は成功させる。そして君たちには負者の指一本、血の一筋とて、関わりを持たせはしない。誓う。誓うとも。泣くなエリザ君、私がなぜ魂を削ってまで生きているのだと思う?」  エリザは涙の溜まる唇をひねってローランスに懇願した。  ローランスは鼻を啜る。 「私の希望とは……なんだ? 我々のいなくなった後を託せる、若き後継者か? 神を信じるように、彼らをも、見ることの出来ない世界をも……信じるのか? 出来るのか?」  若い頃は……。小さくローランスは呟く。  神父はストールを引いて頬の内側を噛み、まぶたを閉じて悲しく皺を集める。  あの頃は、よかった。大抵のことは、一晩寝れば忘れられた。  ローランスは、ベッドの下に押しやられた記録簿をグラスに渡した。 「グラス君、観察していて疑問に思ったことを挙げてくれ」  ローランスがエリザの肩を抱き、ベッドの上へ座らせるのを待って、グラスは記録簿を読み上げはじめた。 「まず『鉄の処女』という名の意味。これは、私、また皆さんそれぞれに同じものを連想されたはず」  ペテールは横の壁にもたれ、乱れた髪を触りながら相づちを打つ。『鉄の処女』とは、俗に血の棺桶といわれる、内に刃金を持つ処刑器具。 「なぜ趣向を用意に想像できる名を語ったのか。罠の可能性が非常に高いと思われます。『追放』時に必要となる、正体のイメージの混乱を狙ったものか。最初に受けた印象は、なかなか拭い去れないもの」  グラスはローランスの意見を伺おうと、彼の方を見た。両手で目を押さえて泣くエリザの丸めた背中を擦るだけで、彼は何も言わない。  グラスはまた口を開きかけたが、思い留め、考えを消した。ローランスの補佐に徹する。  ローランスが言う。 「鉄の処女の取り憑いた少年が気を失った時、君とエリザさんは同じ祈りを唱えていただけだな。それほどに……いや」  ローランスが一往復、首を振る。 「にしては、悪霊に対して影響が強い。まるで、神の介入があるようだ。だが、私はこの場に居て、神の熱を感じなかった」 「答えはなんです?」  髪から手を放して、ペテールはゆっくりと話すローランスを急かした。ローランスはあくまで慎重に言葉を続ける。 「ああ、わからない。弱い悪霊なら、祈りだけで充分対応できるのだが、この悪霊、鉄の処女はかなりの執念を先に表している。決して弱い霊ではないはずだ。……なんだろう」  ローランスは考えた。  ならば……。私が昔に対決した悪霊の性質を、この鉄の処女が装っているのか? 上擦る声、口を窄めた話し方、鼻歌と冗談……そして祈りに対しての抵抗力の無さ。私に過去の経験を持ち出させて、肩透かしを食わせようと? 悪霊の行動を警戒して全てを疑うべきか? 処刑を受けたらしきことや、『鉄の処女』という名も全て……。……もしや。眠る少年を見て我々は悪霊の停滞を信じているが、これも、こちらの気づかぬうちに戦局を有利に運ぼうとする、悪霊の演技か?   ローランスは視線を床からグラスに移す。 「グラス君、少年が倒れてから何分になる?」  グラスは自分の影から腕を出し、天井の明かりに時計を照らす。少し眉をしかめ、角度を変えて何度も時計を確認するグラスは、腕を上げたまま呟いた。 「妙だな。時計が、止まっている」  記録簿を脇に挟み、機械式時計のリューズを指先で動かすグラス。  壁際でそれと同様に、不思議そうな顔をして腕時計を指先で弾くペテールの姿。  ローランスは判断してベッドから立ち上がる。 「なあ、悪霊」  二重のまぶたを赤く緩めているエリザが、ローランスの切る十字を見る。 「……神父さま?」  彼女の後ろ、ベッドに横たわった体から直角に首を立てて、シモンはあごを上下に震わせて奇妙に笑った。 「キ……気づいたのね? あんた、エクソシストね? あたし、は、この生温い空気に漂って、あんたたちが諦めるのを、待っていたのに。あんた、中途半端なところで気づくわ。あたしは、それに困るわ。逃げ切るつもりだったのに、見つかっちゃったし、あたしが闇に紛れてあんたたちをころしてしまうにも、もう月が沈みそうだし。あたし、困るわ」  エリザがベッドから飛び退いて、長身のグラスの背中に隠れる。 「月が……? もう夜明けだというのか!」  儀式を開始したのは、夕にしては軽めの食事を取った後の、午後8時。それからいつの間にか、何時間もの時が経ったというのか? そんな時間の途切れなど知らない。いや、そうとは知らず幻覚を見せられていたのか。不快な舌触りなどなかったが。  ローランスは外の明かりの知れない窓を見た。新しく打ち付けた合板、隙間に詰められた布きれ。厳しく封じられたこの部屋には、表の商店通りからの音は届かない。それに普段部屋に届く外部からの音は、屋敷の壁や床から伝わってくる、かすかな生活音だけ……。皆は眠っているのか、それすら今は聞こえない。  思えば、目元に疲れを感じる。……いや、朝が近いというのは、我々を惑わす嘘か? ローランスは指示を出した。 「儀式を続ける。それぞれに私を補助してくれ」 ■16  ペテールが颯爽とローランスの横に着くのを、鉄の処女が心配そうな眼差しで見つめる。 「ねえ、あんた、やる気あるわね。立派ねえ。……悲しいわねえ」 「悲しいことなどないわ」  ペテールが答えた。 「今。あんたの、足音の響きの中に、あたしは、見つけてしまったわ。勝手にごめんなさいね。……きっと、今まで、うすぺらラエリネックさんが準エクソシストとしてその神父の横に立っていたのを、嫉ましくか悔しくか思っていたんじゃないの? あたしには、あんたの涙が見えるのよ。人一倍努力して、勉強して、若くして牧師になったあんたの涙……。いろんな所で、いろんな場面で泣いたわね。人には弱さを見せたくなかったから。こっそり。静かに」 「そういうことは、ありません」 「言い切るの? ……しかたないわ。ラエリネックさんには負けられないものね」  ペテールは離れた位置のグラスをちらりと見た。彼は悪霊の言葉を脇で聞き、申し訳なさそうにペテールを見つめ、今にも謝罪し始めそうに口を少し開いている。 「私は、努力して牧師にはなりましたけど、苦しくて泣いた覚えはないです」  ペテールの言葉は無意味だった。既にグラスとエリザはペテールの顔をじっと見つめ、熟練のローランスですら、ベッドの上に強く視線を固定して決してこちらを見ない。悪霊の言葉を必死に取り消しても、同情の眼差しを集めるだけか。術中に填まったと考え、ペテールは無駄には話すまいと決めた。 「言葉をおろそかにはしない?」  鉄の処女が首を傾げる。 「そのつもり」  ペテールは悪霊から目を離した。唯一まともな自分は何をすればいいのか考えると、ため息が出た。教区専属悪魔祓い師の神父、遠くから招かれた期待の若き神父、被憑依者の肉親の中でも最も強い絆を持つ、母親のカステロウ夫人。頼りにならないのなら、いなくてもいい。一人で結構よ。 「大丈夫よ、あんた。ラエリネックさんはあんたに場を譲る気でいるわ」 「必要ありません!」  ラエリネック神父なんか意識していない! ……ペテールの耳の後ろで、何かが囁く。複数、何十、何百の声。野原の上空から聞こえる鳴声、姿の見えないひばりの群れ。頭皮に緊張が集まり、部屋の湿っぽい空気にさらされて異物のように重くなった長い髪が、一本一本と目を覚まし、互いに挨拶を交す。頭皮に立つ鳥肌。ベッドに向けた視点が狂い、部屋の影が瞳に染み込んでくるように意識が薄れる。膝から力がなくなり、めまいに揺らついてペテールは天井を仰ぐ。と、知らぬ間に横に回っていたグラスが倒れかけたペテールの背中を片手で支えた。ペテールは薄く目を開け、顔を戻す。 「あ、ありがとう……」  気にしない様子でグラスは正面を向いている。  髪の毛の騒めきは消えていた。今はひとつ、後から肩に顎を乗せた何者かが残った。 『ラエリネック神父が本当に憎くない?』  知っているような女の声だった。おそらく自分と同年代の人物。 『私は知ってるわ。私は、あなただもの』  ペテールは振り返る。が、後ろには当然何もいない。辺りを見回しても、ベッドの悪霊を睨んでも、自分の影を見下ろしても、声は、ペテールの耳の後ろに忠実に取り憑いていた。  悪霊?  『いいえ、あなたよ』  ……どうかしましたか……? 怪しい挙動を見てグラスが声を掛ける。 「……いいえ」  首を回しながら、顔も見ずに返事した。  この声は私にしか聞こえていない。 『無視はできないわ……。自分の声なのですから』  目の前で、ローランスが小さな声で悪霊に命令している。鉄の処女も、聞き取れない声で反論する。ペテールはそれを見ながら、耳の後ろの空気を手で払った。 (言い掛りには、負けないわ)  ペテールは心の中で念じる。 『いいわ、いいわ、あなたの行動原理は自分を認めさせること。それがあなたを強くしたから』 (私はそんなに傲慢じゃない) 『私のことは私が知っている。あなたの敵はこの年寄社会。夜の闇を恐れず歩き、発言者よりも知識を増すことで、子どもの頃の敵も、学生の時に反感を持った教師をも屈伏させてきたあなた。だけど年寄りは、若いというだけであなたを認めない……。硬直した思考しか持たない者は、先進的で優れた者を見ても、そうとは認めないもの。天文学、化学、療法に秀でていた、魔女とされた私たちもそうだった。他人に認められようとするあなたは、徐々に、自分を苦しめる若さというものに憎しみを持つようになった。発想が極端なの。早く答えを知ろうともがいていたの。つまり、未熟だったの。そしてあなたは競争心が強い。あなたがこの古めかしい悪魔祓いという儀式に参加するようになったのも、あの日、宗教家を大事にするフランソワから、若い有能な神父が出席すると聞いたから。若くても認められている人物を、見てみたかった』 (悪霊、もういいわ。一体、何が目的なの?) 『トワネット・ペテール。いいわ、はっきりさせましょう。あなたの敵はグラス・ラエリネックよ。戦いなさい。倒せる存在なのだから』 (何を言うの。くだらない) 『……そんな、やっぱり彼には適わないと思うの? 初恋の人に、似ているものね。……。次第に赤面していくんだから、あなたは』 (ちがうの) 『いいえ、そう……あなたの、負け!』  独り言を続けるペテールの名をグラスが呼ぶ。ペテールは耳元で叫んだ正体不明の声に驚いて身を震わせた。 「牧師!」  肩に掛けられたグラスの手を、ペテールは払い落す。 『それで、いいわ……』  微笑の色でそう残し、声は去った。  ペテールは両手で顔を覆う。喉と鼻の奥に、言葉が溢れていた。息をしようとすれば、声帯のあたりに言葉の波が押し寄せた。ペテールの心を作る全ての言葉が、無意識となって身体中に納まっていた所から、逆流してくる。新しく生み出す言葉と過去に生み出した言葉の区別がつかず、足場を失い、ペテールは言葉の混沌の中に沈んでいく。  小声で少年と死闘を繰り返していたローランスもペテールの異常に気付く。胸を押さえ涙目で息を整えようとする彼女を見て、ローランスは経験から、ペテールが『声々』に苦しんでいたと感付いた。 「よそを見てる暇なんかないのよあんた!」  少年の喉から発せられた声を、ローランスは突風にするように片腕で遮る。 「ペテール牧師、休みなさい。グラス君と代わるんだ。もう鉄の処女の記録は取らなくていい。『衝突』に向かう」  十字架を受け取るため目の前に差し出されたグラスの手のひらに、ペテールは呟いた。 「……いやよ」  ペテールはグラスを見上げる。 「新教は、カトリックなんかに、負けない」  それを耳にし、鉄の処女が嘲って高らかに笑う。 「あんたは以前、悪魔祓いには私人として参加するとか言ってたけど、それ、守れてんの? あんたこそ自分の言葉を粗末にしてるんだわ。あたしは初めから、聖職者に私人だなんて待遇、ないと思ってたけどねえ……。まあいいわ、あんたが準エクソシストの立ち位置にいるのだから、その責任も一倍よ。それに気に入らないわ、未だにラエリネックさんを差し置いてるなんて」  顔を真っ赤にし、泣きそうに眉を曲げたペテールの握る手の内から、グラスは木の十字架を奪い取って鉄の処女にかざした。 「悪霊、言葉なら私に向けるといい」  グラスは反対の手でペテールを押し下げ、十字架を手にじわじわとベッドに近づいた。シモンに憑いた鉄の処女は、ベッドの上に横になったまま懐かしむ顔つきになり、目を細める。だが、どこからかの隙間風が部屋を回ると、平坦な顔に怒りの表情を表わし、目を剥き、後手に紐で拘束されて丸くなった両肩を見て、道連れにしてやる! とシモンの体を無理な格好に捻った。肩を引き、肘を立てて腰を浮かし、首を曲げ、後ろ手に拘束する紐に向かって黄色い牙を繰り返し突き出す。動作の度ごとに少年の体は跳ねてベッドから落ちそうになった。 「主イエズスの御名によりて悪霊鉄の処女に命ずる。抵抗はやめよ。無駄だ」 「やかましいよ!」  悪霊が怒鳴った。グラスは脇に挟んだ十字架と記録簿を後ろのテーブルに放り投げ、ポケットから聖水を取り出して指先を濡らした。 「神聖の力を知れ」  グラスは指先で少年の額に触れた。悪霊の全身が痙攣し、奇妙に曲がった首を伸ばし、グラスの指に噛みつく。 「!」  指先の聖水が鉄の処女の口の中で破裂する。蒸気を吐きながら悪霊は脱力し、首をシーツの上に倒した。 「ちくしょうめ、ちくしょうめ」  黒く濁った唾で寝間着を汚し、悪霊は呪った。 「ちくしょうめ、うすぺらラエリネックの人! なら今度は闇の力、古の龍の力をお見舞いしてやるから!」  鉄の処女は天井に向いて肩を落として大声で泣いた。泣き声は、劇場や会堂でのことのように、天井や壁に広く届き、厚く重なって響き渡った。  横に出たエリザは少年の顔を拭こうとしてタオルを握った手を伸ばす。頭痛に耐えながら、グラスは彼女の手を掴んで止める。  ……しずかに腕を下ろすエリザの左で、悪霊を見るグラスの緑の瞳は不安に震えた。  歯を噛み締めて頭痛に耐える。ドイツの森の暗さ、子供の頃の家、父の背中が連想される。鉄の処女が顔を下げて姿勢を崩してしまうまで、その苦しみは継続した。 「この音は……」  エリザが気づき、続いてローランス、ペテールも気がついた。 「何かが、軋む音だ」  目頭を押さえ付けるグラスに、ローランスが知らせる。 「ええ、聞こえます」  頭を左右に振り、グラスは手を下ろして答えた。透明にならなければならない。 ■17  何かの軋む音。縄が過剰に巻かれる音……屋根の重みに柱が耐えられないのか……軋みは木の床からか……立合人の誰かが姿勢を変えた? ……天井を三拍子に歩く何者か……瓶の栓を抜く音……? どこで、何が、軋むのか。音の元を探してグラスは部屋を何度も見回す。だが闇に慣れる目にも、床や塞がれた窓、足元に異常は見つけられない。 「少年からです」  後ろでぺテールが言った。方向を示されれば、そのように聞こえる。歯軋りか? いや、不自由そうに膝を抱えてベッドの上に丸まった少年の口は動いていない。 「『衝突』だ。さらに警戒しなさい。彼らの力を見せ付けられるぞ」  軋む音。それだけが聞こえ、他の音はない。部屋は沈黙する。静かだった。 「ベッドの、脚を!」  突然、エリザが息をのむ口元を手で隠して一歩下がった。彼女の指差す先を、グラスは他の者と同時に見る。……動かぬように、床に打ち付けられたベッドの脚。浮き上がった釘の頭。  ローランスは顎を引き、厳しい表情でそれを見下ろした。  未だ聞こえる軋みは、屋敷が動く音ではない。視線の先に、闇に溶けた釘抜きでもあるというのか。徐々に、釘はベッドの脚から突出し、長さを増し、そして、先端を現す。 「念力だ」  言葉を聞いて、グラスは半歩身を引く。数本の釘は、磁石に付くように少年の額に飛ぶ。  グラスは息を止めた。目の前の現実が、不可解に思えた。どういうことだ。ローランスの顔を見たが、何も解釈してはくれない。  少年の額の釘は、吸い付いた順に、その傾斜をゆっくり転がって下り、閉じたまぶたを過ぎ、鷲鼻を越え、皮膚に浮いた脂にまみれてどぎつく照りながら、黒く濁った口の中に消えていく。 「我々の内で、最も無抵抗な者をか」 「急がなくては」  首を後ろに倒し、照明に向かって突き出した少年の喉の、血管が青や赤に浮く白い皮膚に、喉の骨とは違う、尖った角が幾つも出る。 「我らの主、至上なる方、あなたがいらっしゃいますこの者の心の神殿に、不浄さと絶望をもたらす憎きサタンを、どうか御ちからによって奈落の奥底に退け下さいますよう」 「やめてえ!」  金切り声を上げて少年の頭部が揺れる。悪霊がこちらに顔を向け、膨れる肉は釘に圧迫される。喉元の角の先に、できもの程の黒い点が複数生じる。 「奈落の奥底へなんて言わないでちょうだい。あんたたちは知らないからそんな酷い事を平気で言うのよ! 地獄なんて所は無いほうがいいの。人間は、地獄に耐えられない……! でも意識が薄れないの! 目が、手が、鼻が、舌が、一つも漏らさないで苦しみを拾っていく! いや! いやよ! 神は残酷よ! 悪魔と同等の罰を、人間に浴びせるのよ! きらい、きらい、イエス様も、聖霊も、天のお父さまも、きらい、いや!」 「お前の洗礼名を答えよ」 「そんなの、すてたわ。いらない、地獄とおんなじ」 「だが、お前がここにいることは許されない」  涙を流して目を閉じ、口から、鼻から、鮮やかな色の血を吹き出させて少年は髪を振り回した。ローランスは首から下げたまま十字架のネックレスを鉄の処女に見せ、手を取って握らせる。指先から痺れが伝わってきた。親指、人差し指、中指、微妙な熱は三本の指に刻一刻と配分を変え、何かの信号を編み出す。痺れ自体が言葉、意識あるもの、鉄の処女の魂のように思える。そして切実に送られるイメージをローランスは読み取る。  ……小さな窓。何もない部屋。不快な騒めき。今は何時か、あの時から、何時間が経ったのか。テーブルの上のランプが、部屋の一番奥にまで光を送る。ベッドのあった場所に照らし出される、かの処刑器具『鉄の処女』。  無言に立つ像の照り。想像以上の大きさ。  ……知識によれば、あの女性像の内は空洞……そして。  幻覚の中、背後から現われた魔女発見業者が縄を引く。すでに落ちそうにぐらつく手首の女が来る。女は背中を蹴られた。女は犬のように床に座り、抵抗し、黒く変色したいたいたしい手首を必死に引き返す。女の腰から垂れた茶色のぼろ布の臭さ、暖かさがローランスにはわかった。棍棒で頭を殴られ、動かなくなった女はそのまま段差の多い床を引きずられた。業者は鉄の処女の把手を掴む。大きくマントを広げるようにして、鉄の処女は身を開いた。  剥き出した悪魔の牙。内にむかって突き出した何十もの太い針。女は立たされ、その針に背中を掛けられた。男のような低い叫び。魂のない司祭が業者に指示を出し、裏に複数の鋲の打たれた戸が閉められていく。閉まりきるまでまだ半分もあるところで、重い抵抗がうまれたのが見えた。複数の業者が肩で戸を押し、閂をかけた。肉厚な鉄の処女からの、小さな叫び声が消える。業者が棍棒で鉄の処女を打ち鳴らす。中からふたたび悲鳴が漏れる。戸がわずかに振動している。血の固まりの詰まった器具の溝から、少しずつの血が流れる。  気を失えば、いくらでも起こしてやると、司祭が大声で言っている。  ……ローランスは、手を、離す。 「たすけて、きらい、地獄はいやっ! たすけて、イエス様!」  溺れる人がものを掴むように、鉄の処女は必死に震える手でローランスの首に掛かる十字架を掴む。手繰り寄せようとする鉄の処女に何度もローランスは首を引かれたが、力が緩む時を見て彼はネックレスを外し、鉄の処女の指の中に包み入れてやった。 「…鉄の処女が祈りに過敏に反応して倒れたのは、偽装ではなく、祈りの影響を受けやすい心理状態を作っていたからのようだ。だが、それも悪魔の監視を恐れ、言葉として明確には表わせられなかった。今まではな」  ペテールが言う。 「鉄の処女は、神の支配を受けたがっているのですね?」 「だろう」  ローランスは振り返る。 「だが、どんな理由があろうが、一時的にでも悪魔に魂を売った人間に私は同情はしない。エリザ君、負者などに子どもの喉は破かせない」  エリザは胸にタオルを抱き締め、床に視線を落として頷いた。 「『鉄の処女』を、グラス君」  ローランスが言った。グラスは記録簿を開く。 『鉄の処女』、『鋼の中の呪い』、『美貌の主』、『処刑』。読み上げるグラスの横で、ローランスは皺を寄せた眉間にこぶしを当て、口の中で言葉を繰り返す。命令する相手を正しく識ろうと目を閉じる。 「……鉄の処女、聞け」  ローランスが目を大きく開け、威厳を持って命令する。 「火炙りや鋼を用いられ、殺された女たち、内の男、ケートヒェン乙女を中心に集まる者ども。お前たちがシモン・カステロウに憑依する理由はない。一時の避難など考えるな。お前たちは、全能の神を敵にするのだぞ」  ペテールは存在を小さくして、悪霊と一緒にローランスの言葉を聞いていた。 「お前たちに言葉はもったいない。一言だけ命ずる。直ちにこのエリザ君の子ども、シモン少年を解放せよ。直ちに。抵抗は意味がない」  鉄の処女はローランスの法衣の裾を弱く引っ張り、泣いて懇願した。 「もしもし、もしもし、神父さま、どうかお見捨てにならないで下さい。おたすけ下さいませ。神父さまから見離されてしまいますと、もう、永遠に、地の底からあがって来ることができません。お助け下さい。天の御父様への、お取り成しをして下さいませ」  グラス、エリザ、ペテールは、血を吐いたその哀れな悪霊を見下ろすローランスの顔に注目する。ローランスは瞳を細め、信徒にするようにゆっくりと、悩む相手に相応しい言葉を聖書の中より選択する。 「よろしい」  ローランスが朗読する。 『……わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい』『……神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である』 「死んだのち、今、お前は永遠の地獄にいる。だが聖書の別の箇所によれば、世が完了する時には全ての人間、天国、煉獄、地獄の魂は、もう一度、審判を受けることができるという……。行け! お前。時の終わりまで、煉獄として地獄に焼かれるといい。少年から去れ、私の目の前から消え失せてしまえ」 「ファチマの祈り……。ああイエズスよ、われらの罪を許したまえ。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、ことに主の御哀れみをもっとも必要とする霊魂を、天国へ導き給え」  ローランスが澄んだ声で祈った。意識が遠退くように、鉄の処女の感謝と安らぎの浮ぶ顔も、力をなくしていく。あたたかさを受けてまぶたを重くし、口から血の固まりと数本の釘とを床に吐き出す。顔の輪郭が緩み、突き出ていた頬骨がへこんでいく。  終わった……。ペテールは目を閉じた。頭と、膝のあたりに痛みがある。そして緩い眠気。……今はきっと朝。沢山の時間。贅沢だけれど、明日までゆっくりと休めるわ……。ベッドの前のグラスが振り返り、休憩を告げる。ローランスは、ベッドの上でエリザが少年の手を結ぶ紐を解くのを、腫れぼったい目で見守っている。ペテールはグラスと共にドアへ向かった。  ペテールはメッキのドアノブを掴み、回して押した。冷たくて気持ちいい。  彼女は疲れていた。  逆にノブを回し、怠い腕で引いた……。  何回か繰り返す。だが、鍵も掛かってないのに、ドアは開かなかった。  ペテールは後ろのグラスの顔を見る。グラスはペテールの顔を見下ろす……。――グラスの後ろ、ペテールは不思議に数秒見つめ、確認し、顔をひきつけた。  グラスの高い背の後ろ、床に尻もちをついてベッドを見上げるエリザ、ベッドの上に立ち上がる病人シモン、彼に憑依の影を残す鉄の処女、その形相!   眼球が無く、暗い空洞に見える二つの穴と逆立つ髪の毛。ハムの端のように皺くちゃに垂れ下った両耳、口の先から吹く紫色の細かい泡……。少年の体が、絞られる布巾のように捻り巻く。紫の泡が赤に変わり、鼻からも、鮮血が流れ出す……。体に巻き付いた腕の先で、痛みに指が震える。苦しむ声。少年のものではなく、若い女のもの……。  裏切り者……!   何もせず見上げるローランスの顎。大粒の、嵐の雨粒ほどの大粒の汗が溜り、床に落ちる。 ■18 「『主人』……」  ローランスの嗄れた声。  捻れたシモンはベッドの裏に放り捨てられる。  あとに残った強力な気配。ベッドの上から聞こえる、荒い息遣い。姿のない一匹の巨大な獣。シーツに型を押す、尖った爪。立会人たちは皆、疲れている、休息が必要だ。だが、主人は姿を現した。悪霊ごときを塵に見せる迫力は、それを許しはしない。  部屋がしぼむ感覚。足場が不安定になる。崩れた態勢を立て直して、ローランスは十字を切る。 「勝利は、主に」  相応しい被害をローランスは予測した。彼は苦しみを思い出した。 「気配で、お前が悪霊などとは違う存在なのがわかる。お前、『主人』よ! 名を告げよ! 聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ、モンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所に降りて三日目に死者の内より甦り、天に昇りて、全能の父なる神の右に座し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来たり給もう、そして今、我らの頭上にまします救世主イエス・キリストの御名によりて命ずる。名を告げよ!」 「大層な名だ」  ベッドから聞こえた、よく響き、低く品のある肉声。毛を逆立てるように放題に膨れ上がった獣の気配が、冷やされて小さくなり、人間大の大きさに落ち着く。 「君たち、力・力・力と、鉄の処女のふたつの前菜はいかがだったか。私としては、力・力・力はなかなかの味だったと誇らしく思うよ。それに引き替え、鉄の処女は。君たちを侮っていた。失礼したな。反省すべき事柄だ。どうか機嫌をなおされてほしい。さて、つまらぬものを出してしまったお詫びとして、私自らが主菜となって君たちに味わって頂くことにしよう。口直しの用意はさせていない。せめて、私をご堪能頂こう。お分りかね、諸君?」 「繰り返しイエズスの名によりて命ずる! 名を名乗れ!」 「軟件『梟』」  悪魔は笑い、即座に答えた。 「君たちは、この名の働きのものになるだろう」 「人間は自由意思によって選択する!」  グラスが気配のする空間に向かって進み出る。同時にベッドの裏から爬虫類のようにひび割れた手が伸び、シモンが這い上がる。シモンは上半身を起こし、とかげのように感情のない目で悪魔のいる空間を見つめる。濁りの印象をもった悪魔の気配は、すみやかに煙が排気されるように、シモンの濁った瞳に吸い込まれていった。  シモンが熟年の仕草で咳をする。  始めよう。  鉄の処女が受け取った手の内の十字架を悪魔は投げ渡す。ローランスは飛来するネックレスを両手で受け取った。悪魔は跳ねるようにベッドを跨ぎ、座り直してこちらを向く。 「グラス君、十字架を持て」  全てを透視するように目を開いた知的な面持ちの悪魔に睨まれ、ローランスは目を離せず、息漏れする声で言った。 「ペテール牧師、君は、記録を。エリザ君は……無事を、祈ってくれ」  悪魔梟が高く声を上げて笑った。ローランスはびくつく。  彼のその怯えに、グラスは逆に冷静になった。  悪魔梟の、知性的な雰囲気。  だが、ローランス神父には経験がある。それによって相手を恐れているのなら、やはり。  ごぼごぼという詰まった下水管のような音が少年の腹のあたりから聞こえる。発生した異臭が部屋中を占め、皆、呼吸の度に吐き気を催す。  ペテールが床を蹴った。 「やめなさい!」  だが悪魔は術を解かない。  おくびがきっかけとなり胃のものが持ち上がって逆流する。今の呼吸で催した吐き気を押さえ込むまで、次の呼吸は出来ない。ペテールは黙り、口を押さえて、じっと耐えた。  梟が言った。 「私は忙しい。かの神父の取り巻きたち、構っている暇はない」  びくん、とローランスは内の心臓に突き上げられ両肩を跳ね上げた。だがイエスの名を呟く内に落ち着きを取り戻し、エクソシストの鋭い目で、対峙する悪魔を睨んだ。 「悪魔梟、お前は我らの主の敵ではない。無駄だ。人間の想像力によってしか拡大できぬお前たち、始めから純粋なる被造物の人間にはかなわない。余所への逃げ道など考えるな。私が神の手となって、お前を奈落に押し戻してやろう」  悪臭が消える。  少年上に顕現する悪魔は、押し殺して話すローランスの靴から顔までを値踏み、一目置く者へのように笑い掛けた。 「我が主の光は、お前の策略を無効にする!」  ローランスは十字架を胸の前に握り締めて、早口に祈りを唱える。  ははは。梟が笑った。 「神父、君こそ、よっぽどじゃないか。鏡を持って来させようか。何だ、その敵意を剥き出した表情は。口にする言葉も、祈りではなく、呪文か何かか」  ははは、グラスの後ろに隠れるエリザに向いて言う。 「ご覧。神父を」  エリザは笑うシモンを気にしながら横目にローランスを見る。  ……ローランスは目の下や鼻の脇の汗を拭った。目の前の子どもの胸から大剣が突き出してくるイメージが突如浮ぶ。顔を拭い、その馬鹿げた発想を払おうとローランスはうつむいて頭を振った。……二、三匹の虫が額を伝って歩く感触。違う、それは汗だ! 一気にそれらのイメージが薄れ、かわってその後のまぶたの裏に、過去の儀式が現われる。  ……彼が若かった頃。始めて立ち合ったのは『蜜柑神父』とあだ名されるルーマニアの悪魔祓い師の儀式。被憑依者は、農具とともに納屋に住む身寄りのない老婆。負者、『子供結い』、『蛇のおかげ』。  二年後のドイツ。再び『蜜柑神父』の補佐として参加した、工員への儀式。深夜の教会。その途中、気を抜いたローランスを庇い、『蜜柑神父』は儀式半ばに、飛び掛かった工員から胸を折られて絶命する。  三回目。教会の許可を受け、ローランスは単独で儀式に望む。敵は前回と同じく工員に憑依する『斥力の雌虎』。執念で追放し、ローランスは疲労のために聖堂の長椅子で丸一日眠りこける。  ――ベッドの上の少年が、口の前に両手を組んだ――  続きはオーストリア、ウィーン。悪魔祓い師ローランスの名を世に知らしめた、墓場の除霊。夕闇の頃にどこからか聞こえてくる声々。ローランスは友人の医者と共に『法力さま』と称する声に追われながらも、悪霊の集う原因を樹木の根に見つけ、それを焼却した。以来、その墓場には、声々も、悪魔崇拝者も現われなくなった。  五回目は、講演のためにフランス、スイスの数ヶ所を回っていた時。地図上ではジュネーブから南へ百二十キロの街、グルノーブル。講演の最中、悪態を付き、歌を唄い、一人で騒いでいた最前列の痩せ細った女。壇上から気付いていたローランスは講演の後、助手にその女を連れて来させた。テーブルと二つの椅子だけの控え室で、ローランスはメモを取りながら、わずか二十分で彼女に憑依する悪霊を追放した。  六回目の悪魔祓いの場は、ドイツ、ミュンヘン。被憑依者は少女、双子の姉。負者の名は『井戸底』、『牢屋』、『クララ』。『クララ』とは、双子の妹と同じ名前であった。そして儀式中の不注意。ローランスは一人の技術者を死なせてしまう。大きな代償の末に儀式を終了させるが、それは仮の完成であった。何年か後、必ずや儀式を再開するという約束を、ローランスは守れていない。つまりローランスは負けた。  それからの苦悩の十年。二度の自殺未遂。闇に人の顔が見え、食事に人肉のイメージが重なる。蒸し暑い日々。書いた文字が、全て左右反転しているのに気付いたときの恐怖の叫び。鼻は金属の臭いばかりを拾い、耳は時々聞こえなくなる。そして、孤独。  立直ったのはいつか? はたして、本当に立直ったのか?   七回目。最後の悪魔祓い。資産家の子ども、シモン・カステロウ。今思えば、自分の最期に気づいていたのだろうか。跡取りとして申し分ない親友、正義を引継がせる者をその儀式に連れていた。追放した負者は、『力・力・力』、『ヨンピイル』、『鉄の処女』、『壁』。儀式の最中、被憑依者の祖父を敗北させてしまう。そして、自らも。  ローランスは目を開けた。 「これ、は」  熱で思考が鈍った。サウナにいるように、多量の汗が下着を濡らす。 「悪魔梟よ、技を解いてくれ」 「聞き入れると思うか?」  ……負けるのか、エクソシストとして。オルゴールが虚しく止まるように、ローランスの聴覚が、彼に最後の余韻を残して消えていった。――ローランス神父!――それからの無音。感覚をなくして倒れる彼を、グラスが受け止める。 『ローランス神父!』  グラスの緊張した顔、その口が動く。ローランスにとって、かけがいのない親友。君は、私の名を呼んでいるのか、何が起きたのだ?  (私は、悪魔祓いの儀式に関係したために、こころに深い傷を残した人物を沢山見た。なぜ彼らは不幸を背負うことになったのか? それを知っている私は、あなた方に悪魔祓い立会いのために必要な知識をお教えする。……どうか、この知識で、我々の前に立ちはだかるであろう真の危機を回避していただきたい)  ローランスは全員の顔を見渡す。そして軽く目を閉じた。 (世の者が信じようと信じまいと、三位一体の神も諸々の天使も、孤独な言付けの司祭も直視している。確かに悪魔は存在し、喚き散らし、人を飲込む。神より権威を預けられた私もまた、幾度も悪魔に敗北しそうになった)  声が出ない。何故だ。その理由は。  そうか、こんな簡単なことが分からないのは、私が疲れているからだな。この酔いが醒めれば、きっと分かるさ……。また後で、考えるか。 ■19  少年の口を閉じさせたまま、梟が言う。 『君ら人間にとっては、絶えず進行するこの今が大事だ。忠告しておく。友をなくす者を見るのは、私も気が滅入るものでね』  友……か。ローランスは頬の肉を緩める。肩を担いでいるこの友、グラス・ラエリネックと、自分を迎え入れてくれた司教のムッシュ・ボルドロン。何度も口にした、二つの名だ。 『ボルドロンは友ではない。彼は、君の敵だ。小教区の主任として君を快く迎えたのは、彼が日々を退屈して過ごしていたからだ。思い出してみたまえ、彼の趣味を。彼は好物の恐怖映画と同じように、君の報告を楽しもうとしているのだよ』  ローランスは愕然とした顔でベッドの崇高な少年を見上げ、左右に、無心に首を振ってそれを否定する。 『敵だ。自由意思を明け渡せ。君を使ってボルドロンを殺す』  ローランスの意志を読取り一方的に話す悪魔との噛み合いが理解できず、グラスは彼を右の肩に担いだままベッド横のペテールに言った。 「牧師! 何が起きている?」 「知りません!」  ペテールがレコーダを触っている。彼女も苛立っている。  くそ! グラスは奥歯を噛み締めた。経験の乏しい自分に腹立った。 「ローランス神父の体が痙攣している。儀式は中止、儀式は中止だ!」 「君、ローランス神父」  少年の肩から気配が飛び立った。細い風が正面の二人の神父に伸び、ずしりとローランスの体が重くなる。支えるグラスは声を洩らした。腰のばねが切れそうだった。  ローランスの肩の上から、撫でるような冷たく上品な声が聞こえた。グラスは耐え、首を回して正体を探す。一瞬頬を擦った羽毛の感触。実体があるのかないのか。儀式の準備段階で価値あるものとして積み立ててきた霊体への理解や認識が、塵になっていく。グラスは視線をベッドに戻して、シモンの顔の、パイ皮のようにぼろぼろと薄皮が剥がれていく鼻の辺りを凝視した。 「これなら子どもの時に聞いた怪奇話の方がよっぽど現状に合うな。どうです?」  怯えるエリザをグラスはきつく眉間を締めて睨み、ベッドに視線を移す。  ベッドからの『声』。シモンの口が遅れてその発音の形を追う。 「ローランス神父、君は、のちの世の人に親切だ。君は、資料を残す。己れの身の危険を知っていても、我々の言葉を聞き出そうとする。それは徳だろうか? そうであるとしても、君は我々の言葉に毒された人間だ。楽園からは、遠いぞ」 「いや!」  グラスにもたれる初老の神父が唸る。 「私はイエズスの救いを信じている……。お前たちを、教会は許さぬ!」 「前向きだ、前向きだ」  ローランスは興奮した。グラスを後ろに突き飛ばし、胸に下げた金属の十字架を握り、少年に向けた。 「人間を地獄に誘う悪魔、痛みを知れ、永久に地獄に繋がれよ。あらゆる力を以てお前を少年の体内より追放する!」 「出来んさ。君は罪を重ねすぎた。旧約時代の十戒を思い出したまえ。その掟の第六は何だったか。なのに君は過ちを繰り返した。死ぬのは老いぼれの『蜜柑神父』だけでよかった。『汝、殺すなかれ』。もう一方、落下死した者には、養うべき母親がいた。その母親の悲しみ、嘆き、暗闇と絶望は、宇宙の意識に刻まれている。なんならその母も、続いて殺してやればよかった。……そして前回の、その六回目の儀式を、君は完成させていない。我々を棲まわせるあの時の少女は、先月、我々の子を身篭もった。……あの儀式以来、君は、信徒を見離した罪、我々の王国との繋がりを引き摺ったままだ……。我々は、君らの神と同じように、冷たくも熱くもないもの、天にも地にも拠らない者の存在に怒りを感じる」  直視のできない苦悩。他でもない、原因は全て自分自身。いつしか、十年前のその負債を解消しなければならない時が来ると、ローランスは十分に知っていた。 「君、司祭でありながら、戦時中に見殺した人間の数は、十を超える。それだけではない。前線から脱出するため、自らも銃を取った」 「私は、お前たちを追放し続ける。……ああ、それが償いだ」 「それが出来ないと言っている」 「なぜ、そのようなことを言う……」  静かに、剥がれた薄皮まみれの顔をシモンが伏せる。  スプーンの手触り……。生温かい十字架を、目と頭で何度も十字架と確認し、ローランスは構え直す。 「ああイエズス! 悪魔に苦しめられ呪いをかけられたこのシモン・カステロウをお救い下さいますよう、お願い申し上げます! ただ、あなたのみが救いを可能になさるのを、わたくし共は存じ上げております! 主よ!」 「神父は混乱している。この状態に、神の力が介入すると考えられるかい」  エリザに向き両手を広げて梟が言った。突っ立つエリザは靴の上にタオルを落し、祈りの格好に両手を凍結させ、黙ってシモンを見つめていた。目を薄めるエリザはもう悪魔に反応はしない。 「ローランス神父、君の終わりの時が来た。君も先に、それに気付いた。……あの記憶は私が引き出したものではない。君がエクソシストであるから、見たのだ。そろそろ、終わりだ」  ローランスは諦めずに祈った。 「『誰が神に並び得ようか』と叫び、ときの声を上げた聖なる天使と大天使たちよ! 今、ここに神を侮り全能者にとって代わろうとする悪魔どもが集まり、人の心の神殿を、混乱と恐怖によって打ち壊そうとしている。この許されざる者どもを奈落の底へ追放するため、私たちを護り、補助の手を差し伸べ給え! 天の十二軍団、地を打つ彗星の天使、お願い申し上げる!」 「破壊の天使と? 私には、それは効かない」  薄皮がすべて剥けたあとの赤い肌に汗を浮かせ、控えめに梟が笑った。 「主、イエズスよ!」  金属を曲げるほどの力。自分の信仰を放さぬように、ローランスは十字架を握った。 「主イエズスよ! 私が成すべき事、私の悪魔祓いの完成、償いの完成、負の債権者の打破のために御力添えを!」  熱するローランスを殺すため、部屋に冷気の渦が巻いた。じわじわと、汗をかいた頭皮や首筋、その奥の肉に冷たさが染み込む。居心地はひどく悪く、疾病のように全身の感覚が鈍重に敏感に狂った。気遣ってタオルを首に近付けるエリザを見もせず片手で押し退け、眼光だけを澄ませ、彼は、王国に決戦を挑んだ。  ローランスの心を犯す言葉。  正の印象と負の印象。  裁縫する修道女。贈り物のワイン。脳裏に現われるステンドグラスの絵柄。ジュース・ミキサーで欠ける指。焼きたてのクロワッサン。血の溜まった修道院の便器。潜伏していた敵兵から顔を撃たれて下顎を失った兵士。蛆。船舶のスクリューに巻込まれる潜水夫。緩い陽射し。『衝突』。悪魔崇拝者。名の由来。蚊。ビルから落下してきた鉄板に体を両断される女。赤い靴。現実主義者。バケツの糞尿。誰もが笑う冗談。目を開いた堕胎の子。連続する不合理。墓。臨界。割れた腹から腸を出して笑う悪霊。不自然に折れ曲がった蜜柑神父。大きな赤い龍。海からの獣。地からの獣。金銭。脳髄。大陸と同じ大きさの大剣。夕陽。神によって終末に備えられた破壊の天使。獲物を追って駆ける犬の脚。瞼のない人間。握手。精神対決。祈り。呪文。死の鳥。『おいしい栗はいかが? 緑目の神父さま』『ねえ神父さま、買ってちょうだい』『ああ、甘そうな栗だ。頂こう。いくらだい』『このスコップ一杯で8フランよ』『よろしい』。胸に打たれた楔。襲いかかる爪。スポンジの中に隠れた針。指先から、一滴の血が滴る……。  正のイメージは失せていく。 「廃退世界か……?」  舞台が変わった。  ローランスは見渡す。彼は広大な荒涼の地にひとりで立っていた。地平の果てに吹き荒ぶ風が赤い埃を巻き上げている。落ち着けない気配。日食の日のように空は暗く、太陽がない。ローランスは目を細め、傍らに朽ちる樹木を見る。足を組んで座ったシルクハットの紳士、それにローランスは十字架を向けた。  汗や脂によって不気味に照かる顎、影を生む笑窪、カステロウ一家を苦しませる張本人、憎むべき相手、シモン・カステロウが言う。 「我々が潜んでいようとも、姿は普通の子どもとかわらん。我々に対する悪意がその外観に向うことが今までにもあったはずだ。肉は、目前の目標となりやすいからな……。見ろ、力強くかざしたその十字架を。お前の目には、いたいけな子どもを狙う、銃の照準に見えてはこないか?」  ローランスはベッドの前に、脱力して崩れた。 「これで終わりだ。神父の中の種子は、すぐにも発芽する」  自分の肩を激しく揺らすグラスを呆然と見ながら、ローランスは擦れる声で言った。 「私は歳を取った。思い出す、記憶は全て、がらくたばかりさ。見なさい、グラス君……、私の惨めさを。私のようにはなるなよ。……私には、何も残されていない。何も……何も、何も、何も、何もだ!!」  同じような事を、蜜柑神父も死ぬ間際に語っていた。 「い、いいや、そうか……、同じように……同じように、私にも、神の恵みがひとつだけ与えられていたな……。ああ」  負者が付け入る人間の弱点とは、過去の罪。若者は後悔の積み重ねを知らない。……だが、いずれ知る。どうする、親友をこの苦悩の内に引き摺り込むのか? 自分と同じ人生を歩ませるのか? 孤独で、無感動で、生に意味をなくす、静物の人生に……?   ベッドの上で梟が鳴いた。ローランスは判断した。 「時間がない。グラス、グラス君、私の後を引継げ」  誰かがやらねばならない。別の教区の知らぬ人間になど任せられぬ。 「これからの人生は苦悩の人生だ。沸き立つ地獄の蓋の一端を担う事になる。それでも、正義を貫こうとするならば、私の前にひざまずいてくれ」  ローランスはその瞬間を長く感じた。  ただ視野の中で、悪魔だけが正常な時の流れの中に居た。目の前のグラスの動きが鈍っていた。 「消える……」  目に見える速さで皺の型が捺されていく。全身が衰弱する。ローランスはグラスの明茶色の髪の上に手を置いた。  ――按手。司祭となるための儀式、叙階され、新司祭となったあの時と同じように。頭を垂れた若い神父は従順に、その聖霊を受ける。  懐かしんで、ローランスは微笑む。 「苦しみの引継ぎは、身近な人間にさせたい」ローランスが咳き込む。「普通思うのは、その逆だろうが。……相手が身近な人物なら、苦悩を共有してやれる……。この思いは、異常だろうか?」  梟が翼を広げた。  ローランスに、細く鋭利な霊の爪が刺さる。胸のあたたかいものをもぎ取られる。胸が凍りつく。心臓が止まるほどの衝撃。 「主、よ」  ローランスは、突き刺さる爪を左右から両手で掴んだ。熱の違う体内の異物。力の強い、巨大な爪。爪は察して脱出しようともがく。だがローランスはしっかりと掴み、引かれようが押されようが、捻られようが、うなりも上げず離さなかった。研かれた貴石のように滑らかな冷たい爪の表面に手のひらを粘着させ、ローランスは集中し、力を呼んだ。 「主の御名によって命ずる、シモン・カステロウ。汝は三位一体の神の御名によって洗礼を受けし者。イエズスの光によって照らされた汝の全ては、悪を忌み嫌う。肉の父母より、肉の友より、肉の恋人よりも汝を愛するイエズスに応えよ。イエズスを求めよ。イエズスに告げよ! 汝を造りたまいし神の名に、汝を救いしイエズスの名において、再度汝の救われたきことを、汝の自由意思によって表明せよ……。シモン・カステロウ!」  ローランスの口から血が流れ出た。 「限界だ! 手当てを!」  グラスは彼をペテールに託す。先とは違い、ドアは簡単に開いた。 「グラス君。被造物である悪魔が、神に勝つ事など、ありえないよ。……大丈夫さ。君、神父でいて、よかったなあ」  虚笑。そしてドアが閉まる瞬間に見えた、ひどく疲れた敗亡の顔。 ■20  グラスはベッドに対峙したまま、目を閉じていた。  ローランス神父。  グラスは自分を呪っていた。  瞬間ではあるがグラスは戸惑ったのだ。  なぜ?   すぐさま儀式を引き継いでいればローランスは精神的な敗退から免れ得ただろう。  恩師として彼を仰いだ日々は何だったのか。 「なぜ?」  昨夜二人の司祭から聞いたローランス神父の評判を気にしているのか。あの時、大声を張り上げて彼を弁護したはずなのに。 「エリザさん、十字架を、渡してもらえますか」  ローランス神父は若い頃から悪魔祓いの儀式を経験していた。一度でもこのように精神を荒ませる悪魔祓いを、幾度となく。 『勝つ。今回が最後の儀式になるはずだ』  毎回、ローランス神父はそう漏らしている。  故郷より遠くはなれて、イエズス会士としての務めの中で、充分な休息も与えられず、彼は彼の道に立ちふさがった悪魔と戦ってきた。どの悪魔も強かった。逃げ出したくなる思いを振り払い、彼は戦った。  その苦悩の人生は、他人には分からない。最愛の友とローランスから呼ばれたグラスでさえ理解出来ない。  ローランスが最後に見せた虚笑を思い、グラスはただ目を閉じていた。  あのとき、スイスで人生に意味を見出せなかった自分を救ってくれたローランス神父。彼の苦悩を、芯から自分は理解できない。それどころか逃げたのだ。数分前のその出来事がグラスの体を震えさせていた。 「あなたの苦悩を教えて下さい。是非」  ローランスは彼に後を任せた。 『教えたくはなかったよ、グラス君』  ローランスはそうとでも言うか。 「構いません。あなたを救う手がかりが得られるなら。個を消し、透明になろうとも」  何でもする。  グラスは床から視線を上げた。少年は鳥のような瞳だけの目でこちらを見ていた。 「自身の思いを打ち消すことで、数々の責任を果たしてきた、『透明』と言われるグラス・ラエリネックか。儀式の始まりから、かのローランス神父の影で、何を考えていた? その影を失い、これからどうするんだ?」  グラスは顎を引いて答えた。 「私はローランス神父の補佐だった。そして今からは彼の後継者だ。それ以上の主張はない」 「我々はローランス神父ばかりを見ていた。君は今まで、何を考えていた。かの神父から力を引き継いだのか?」  少年が顔を伏せる。悪魔の気配が縮小する。 「神はあの孤独な神父を愛した。神は、他の人間の見ていない場面を愛するからだ。だが、成績優秀のグラス君よ、人の世で慕われるグラス君よ、日の下のグラス君よ、誰も、君に同情する霊などいないんだぞ。ローランス神父は強かった。悪霊と悪魔を何体も追放した。神が彼に付き添っていたからだ。だが、その強力な神父は今、私が駆逐した」  ……儀式を成功させるため、グラスは今までローランス神父の補佐として頭を預けていたつもりだった。だが最後に戸惑いが生まれた。そんな自分があのエクソシストの役になれるのか。それはグラスにはわからない。だが。 「ローランス神父は、神学校時代からいろいろな切り口を教えてくれた」  人と出会うということ。自分の心境に気づくということ。思いを留めるということ。人は自らを不幸にさせる選択を運命だと選ぶことがある。……神という存在を聞くという事。想定するという事。自身を低くするという事。安らぎの場は戦いの場とは別にあることを人に教えることが出来る自分の心。戸の外の光を感じることが出来るという事。  グラスは十字架を手に持つ。 「シモン少年、我々は君の意志を聞く。我々は全力を尽くす。救われたければ協力せよ。体内の不快さを追い出せ」  途端に静けさが去り、少年はカステロウの血筋の繊細な目鼻立ちをいびつに崩し、シーツを引いて悶えた。地盤の緩い地に建てた小屋が豪雨に崩されるように、部屋が揺れ、床が歪み、板が割れて捲れ上がる。  梟とわかる動作がベッドで胸を押さえ、苦しみで顔を赤くする。グラスは浮き上がった床の板を靴の爪先で蹴った。触れはせず、靴は板を擦り抜けて空振りする。 「怖れなくていい。これは幻覚です」  傾斜した床に垂直に立ったグラスから指摘され、エリザは恐る恐る、身を支える壁を押してグラスに寄る。一歩ごとに平衡感覚は床に従って修正され、気が付けば床の損傷は消えていた。  苦渋の混ざるまま梟が笑う。 「牧師が……戻ったようだ」  背後のドアが勢いよく開いた。エリザが驚いて振り向く。部屋に入って来たのはペテールだ。 「ローランス神父は無事です。アンリさんによると、喉に小さな傷があるだけで」 「無事」  グラスにはそれだけでよい。  別室に備えるアンリの鼻は、先程からシナモンのような匂いを感じていた。この甘くて辛い匂いは、部屋に充満しているものか? それとも自分の黒のセーターに絡まっているものか? 紅茶に入っているわけでもなく、ましてテーブルに広げている内の薬品にはない匂い。 「神父さま、何か、変わった匂いがしてませんか?」  堅い笑顔で、長椅子に寝て休むローランスに確かめる。 「……」 「神父さま?」 「気付かなかったが」  目元にタオルを掛けたまま、ローランスが答えた 「それなら気のせいですね。休んでて下さい」  ローランスは力を抜く。アンリは警戒し、ティーカップを持ってソファーから離れる。  視線。 「カステロウ家の方ですか?」  どこからも返事はない。  アンリは口を噤み、首を下げて慎重に部屋を歩く。曇って白く輝く窓ガラス。シャンデリア。暖炉の小さな炎。……部屋は明るい。昨日の儀式では、何事もなかった。  部屋の隅に立ち、傍にあったテーブルにカップを置く。 「いやあ、気のせいか、これは」  アンリはテーブルの椅子に座り、大きな声で笑った。声は、目に見える壁よりも近い所から反響した。寝たのか、ローランスは黙っている。  ……あ……なた。  はじめ、アンリはその耳元のささやきに戸惑った。  その、先日道具屋から運ばれた、小さなテーブルと三脚の椅子。  目の前で、見えない力によって、その椅子の一脚が引かれる。  けれども繰り返し呼ばれ、その女の声を思い出して、顔は前に向けたまま、細かく震える指で、自分の頭の左後ろのその女の髪を、しずかに撫でた。 「あ、ああ」  掛からずに梳ける、このやわらかい髪。この顎の線。覚えている、覚えている。でも、なぜだ。よみがえる、愛しているんだ、間違うわけがない。彼女だ。 『ふり向いてはだめ』  彼女はアンリの頭をか細い両腕で抱いた。アンリは、その腕に頬を擦る。 「君かい? 僕をほったらかして、どこに行ってたんだい……? ……何もできなかった僕に、愛想を尽かしてたのかい?」  アンリの耳の裏に、彼女は口づけする。 『だめね。私の心がわからないの? いつでも愛しているのに』 「知ってるさ。確かめただけだよ」 『いじわるね』彼女が笑う。 「うれしいよ。よく会いに来てくれたね」 『私だって、ずっと会いたかったのよ。なのにあなたは、会いに来てはくれなかった』 「わるかったよ。僕は、君からうらまれているんじゃないかと、心配していたのさ」 『そんなわけないわ、だって……。お医者さんだって、がんばってくれたし、私が死ぬとき、あなた、ずっと手を握っていてくれた。うれしかったわ。しあわせよ』 「君、君。あいしてるよ」 『お菓子よりも? うれしいわ」  うふふ。 『私、今日は、お願いがあって来たの。私が死ぬとき、お腹にいた子、あの子はまだ生まれてなかった。だから、聖母さまは、あの子の魂を、苦労の少ない裕福な家庭に届けて下さったの』  小さなテーブルと三脚の椅子。残りの一脚が引かれる。 『ここの、ご家族。私たちの子は、ここの男の子になったのよ。子どもなんていらないと私は言ったけど、やっぱり、ふたりの愛の結果よね。家族三人で、旅行にいきましょうよ。どこまでも、遠く。あの子を連れて行きましょう。あの、シモンを、連れて!』 「そんな」  アンリは顎の下に回された彼女の腕を強く掴んだ。 『いたい』 「ごめんよ。ああ、でも。できないよ、そんなこと。何を言っているんだい。あの子はプティジャンさんとエリザさんの子だ。連れ出したりしたら、あの二人が、どれほど、哀しむか」 『元は、私たちの子よ』  アンリは目を剥き出して、黙った。 『どうしても、だめ?』 「それよりも、あの箱の中に美味しいお菓子がある。それを」 『わかったわ』  彼女のやわらかい腕が離れた。アンリは腕を追おうとしたが、体が痺れ、振り返れなかった。彼女を呼んでも、もう返事がない。無人の二脚の椅子が、後向きに倒れる。  一目でも。アンリは拒絶する体を無理に曲げて、苦しみながらも振り返ろうとした。そして彼は腰をわずかに回した所で、声を聞く。それは、春の風を思わせるいとしい人の声ではなく、しゃがれた、反吐のように汚れ、臭いまで付着しそうな人外の嘲り。 『男よ、あの女は神に救われなどしなかった。ベッドの上で内臓の痛みに世界を忘れ、そのまま何度も崖の岩に身を打ち、地獄に転落していった。……腹の中の、子供と共に』  歯を噛み鳴らす口臭の者は、アンリの耳たぶの縁を噛みちぎって消えていった。  ……その、小さな家庭にこそ相応しいテーブルに一人で着いて、アンリは倒れた二脚の椅子を凝視する。 ■21  鏃を無くした矢のようだとグラスは思った。  だが飛び続けなければならない。  邪心を捨て、心を細くし、居止めなければならない。それが役目だ。 「主イエスの御名によりて答えよ。お前は、いかなる時に少年に憑依したのか?」 「よろしい。かの神父の余らせた時間を君に与えよう。実態のともわなぬ評判しか持たぬグラス・ラエリネックが切に必要とするならば、お答えしよう。それは、夏。街に雨の降る日。シモン・カステロウが自分の未完全さに気づいた時」 「どういう意味か」 「知らせるのはここまでだ。理解する者は苦悩する。君は知恵の実を知らないのか」 「詳細に言え」 「君は知恵の実を知らないのか」 「……では梟よ、お前はいかなる理由で少年に憑依したのか?」 「君のその濁った青緑の瞳は、何を探している? このシモン・カステロウを手段としたのには、理由などないのだ。理解など出来まい。理由などないのだから。我ら王国は、かの悪魔祓い師、ローランス神父の負債を回収しに来た。我らが人間に取り憑く場合、必ず何らかの要因があると信じている司祭たちを王国は笑う。弄ぶ。君たちには知れぬ次元のこと。我々に距離はない。君らでいう、権力も必要ない。かの悪魔祓い師、ローランス神父の負債を回収しに来た。それ以上は聞かぬことだ。知れば君は理不尽に思い、自らを拒絶するだろう」  グラスは悪魔を疑う。その横、対話を止めたグラスを焦れったく思い、ペテールは歩み出てベッドの前に立った。 「聞きなさい、悪魔梟。命じます。今すぐにシモン少年から出て行きなさい!」  混乱している神父よりも興奮して物言う牧師に興味を引かれ、梟は震える右手で胸を押さえて、視線を横に移動させた。 「この私に何の権限で命令する、君。よく耳にする神の名でもなく、空脅しの教会の権威でもなく、君、トワネット・ペテールの名によって命令するのか?」 「牧師。黙りなさい」  ペテールはグラスの静止を聞かず、思い通りに動かない世界に再び命令した。 「いい? 彼の家族は迷惑してる、出て行きなさい」 「なんだこの人間は」  ベッドにしがみつくペテールを梟が笑う。  グラスが言う。 「主イエズスの御名によって命ずる! 狂気の権化! 牧師に対し血にまみれた策略を巡らすことは許さぬ! 恥じて悔いよ!」 「グラス・ラエリネック君、君の瞳は濁っている。私は決して、乱暴をする者ではない。武器も持っておらぬ。ただ、知恵の主に仕える者であり……」  ペテールが話す梟を遮って命令した。 「悪魔、出ていきなさい! 今すぐによ!」  つまらない女に悪魔は腹立て、憤る牧師を見下した。 「自分の名を掲げ、生身のまま王国の前に立ちはだかるか。身の程知らずは歓迎だ。よろしい」  梟が部屋の隅に目をやる。『行け』と闇に命じ、口で吹いて風を起した。グラスは風に舞い上げられた何らかの粒子を顔に受け、手にペテールの肩を掴んだまま顔を背けて後ろによろめく。そして七歩退いた所で後ろの腰にテーブルがぶつかった。 「好物だろう」  ねじ折れたように首を傾げて梟が囁いた。グラスは目を開け、テーブルを見る。その上には風で開いた聖書があった。 『イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、お前たちは、いったい何者だ』  それに表示された聖書の一節を梟が読んだ。 「牧師よ。君だ……牧師よ。神の名や教会の名によらず私の前に立った君の根拠とは、なにか。無信仰のペテールよ。君は、何者だ」  ペテールは聖書を手に取り、呼吸をしずかに、ミルクのような膜を瞳に張って、聖書の頁を見つめる。  グラスはテーブルにうな垂れた。唸って天板を叩く。部屋の音が遠くなる。  また一人、被害者が生まれた。補助司祭、準エクソシストの自分は、そうであるにもかかわらず、何もできない。手の傷が熱く開く。シモン、フランソワ、ローランス、また被害者が増えた。……その先が脳に浮ぶ。次の被害者にエリザ、最後に、想像のつかない闇を見て、自分が連れ去られる。 「儀式は中止だ」  グラスはテーブルからずれ落ちて床に膝をつく。 「ラエリネック神父さま、お願いします、お立ちください。あの子を救って下さい」  エリザが泣いている。グラスは目を閉じたまま返した。 「うるさい」 「ローランス神父さまがおっしゃっておりました。若年の人間は人生の後悔が少ない分、悪魔から付け込まれる隙も小さいのだと。おすがりできるのは、神父さまだけなのです」 『我々は必ず勝利しなければならない』  その達成は途方もない事のように思えた。  グラスは両手で顔を覆って立ち上がった。 「ローランスさんの『もろき十字架は』には、負債を克服した老人の例が書かれていた……。……時間は、掛かるだろうが」  振り回したために痛む手を下ろしてエリザに笑った顔を見せる。作り笑いである事は隠さなかった。梟が唸り、ベッドの上で胸を押さえる。グラスは軽くエリザの肩を叩き、梟を見た。  そう、……先程から時折、梟は胸を押さえて苦しんでいる。一体、何に苦しんでいるのか? ローランス神父の残した祈りが、未だ効いているのか。 「相手は悪魔だ。その弱点を突かなければ、私が梟を追放する事はできない。主よ、ローランス神父よ、感謝いたします」  グラスは胸に十字を切り、エリザに言った。 「少年に呼び掛けなさい。取り憑いた負者に抵抗するように」  狙いをエリザも理解し、グラスの指示通りにシモンに呼び掛けた。 「私の愛しい子、お願い、お母さんたちを助けて。悪魔をやっつけるには、あなたの力がいる」  語りかけるエリザを梟が嘲笑し、独り言をつぶやく。 「行儀も知らない子どもに頼ろうとするのか。どう思う、少年。君は家族から何度打たれただろうか。戻ればきっとこれからも打たれる事になる。まったく目を覆う惨事だ。少年、そんな苦しみの世界よりも、我々と居たいと思うが。どうか?」 「人間をたぶらかす悪魔、主の怒りを受けよ!」 「無駄だ」  グラスは手に持つ十字架を悪魔の額に突き付ける。だが、思うように力が入らない。肘が挫けて十字架が下がり、頭部を圧迫するような頭痛を受けた。グラスは我慢して顎を締める。 「グラス君、君の肉は疲れている。休みたまえ。夜通し儀式を行っているのだからな。ひとつの悪霊を追放したその身に、休憩をやらなかったのは悪かった。突然エクソシストが倒れ、その後を引継ぐことになったのだ、気疲れもあろう。休みたかろう。昨日、窓の破損を修繕し、走り回り、軽い食事を取った後から続いているこの儀式に君の体力は継続している。すばらしい。他の者はとっくに空だぞ。だが、そんな君も、そろそろ終わりか。前夜には、君は私の影を踏み、ろくに眠りに就けなかった。ローランス神父について悩み、さらに前には、『力・力・力』とも戦っている。疲れただろう。休みたかろう。儀式準備の日々まで思い起せば、もう限界だ。悪かった。悪かった。何度も君の休息を奪った我らからの、許しを請う贈り物だ……。……濁ったその目を、閉じよ。そしてその輝きを、消せ」  グラスとエリザの後ろでは先から敗者ペテールが狂った様に歩き回っている。梟は彼女を指し、「あれよりも安らかに」と言った。 「なにを!」  だがグラスはめまいする。 「主よ、主よ! 私をお消し下さい! 私の自我を、私の自由意思によってお預けします。使命だけを考え、行動出来るように!」  儀式中、休憩を乞う小さな思いは渇望へと肥大し、理性では抑えの利かない内の敵を呼ぶことになる。内の敵は負者の術と結合しやすく、幻覚を次々と作り出していく……。そのローランスの警告に身を奮い立たせ、送り込まれた睡魔と戦いながらも、グラスは、まぶたを閉じた。手足がほてり、舌と喉が乾き、脳を交う言葉も断続となった。グラスはどこか遠いところから聞こえる、やさしい声に触れる。それは誰だろうか、それとも聖母のものか。パンの香ばしい匂い、粉の匂い、グラスは、沈んでいく。  その日の空は晴れていた。 「グラス君、食堂には入るなよ」  去年だ。司祭館の廊下で友のエルズナーが言った。理由は教えない。 「何をやっているんだ」  今朝から、みんなして。  グラスは飲み物が欲しいんだがとエルズナーに告げる。 「ああ、持っていってやるよ。部屋で小説でも読んで待ってなよ」  エルズナーに背中を押され、グラスは階段を上って部屋に入った。指示された通りに小説を読むが、集中できない。  どうも落ち着かない。グラスは本を置き、窓に近づく。見下ろすと、シスターがダンボール箱を抱えて中庭を小走りに横切った。 「グラス君、紅茶で良いよな?」  エルズナーのノック。グラスは急いでドアを開ける。 「何をやっているんだ。私は手伝わなくていいのか?」 「何にもないさ。はは」 「私は除け者か? なんだ?」  グラスの問い質しにもニヤニヤとした笑いだけを返し、エルズナーはポットを置いてドアを閉めた。  部屋に残され、グラスは紅茶を注いで机に向かった。何も任されない日だが、日誌だけでも作っておこうとした。  机の引き出しから用紙を取り出し、腕時計で確認して日付を記入する。  その日付は、何か覚えのある日だった。何だったか。  本棚。机の隅の写真立て。壁に掛けた上着。 「わかったぞ」  誕生日じゃないか。味な真似を。  グラスは嬉しくなり、椅子から立ち上がってドアの外へ出た。  ドアの外は、暗黒だった。 ■22  実際には何秒か。その停滞は。目を開ける寸前の神父の体が、ベッドからドアまで吹き飛んだ。真鍮のドアノブに頭を当ててグラスは眩み、その燃える痛みに安らぎの場から追い立てられ、手に触れた床の聖水瓶を取り、顔を上げた。 「……!」  場面が変わっていた。その空間の風景は一変していた。グラスの艶やかな瞳には、丸く箪笥が映る。……この部屋、これは、たしかに現在の進行だ。その姿は、断じて、脳裏からきた場面ではない。そこは、儀式の場ではなく……物置部屋。 「グラス君、話をしよう。君の濁った瞳について」  箪笥の上を越えて梟の声がした。グラスは立ち上がり、頭から血を流して箪笥を叩いた。 「物を、呼び寄せたのか?」  いや、触覚を含めて幻なのか? 口を半開きにしたグラスは悲鳴を聞いた。 「エリザさん!」  グラスは床を蹴り、はだかる箪笥と木箱の間に肩をねじ込んで抜け、部屋の奥のベッドへと向かった。 「人の痛みを知ろうとする君よ、瞳の色を教えてくれないか」  そびえ立つ家具や道具どもの詰まった部屋に隙間を見つけながら、グラスは足に絡まる荒縄を振り解いて突き進む。 「丁度、今のように全身を圧迫されながら狭い管を抜けた時……、君がはじめて光を見た時……、やさしく抱き上げられた時……」  グラスは濡れた額を壁に擦りながら黙って急いだ。拭うと赤かった。今自分は何をしているのか不明だった。名前にすら違和感を感じた。自分はなんだ。 「両親は、君の瞳の鮮やかさに喜んだ。その、ガラス玉の艶やかさ……」  広くはない部屋だが道は入り組んで所々に行止りを持ち、困難な迷路となっている。 「グラス君、君はその名を嫌っていたが、この名は、君を表すに相応しい名だ。君は、良い名を与えてくれた父に感謝すべきだ。……もっとも、今は絶縁していてどうしようもない」 「父」  グラスは隙間を転がってきた丸テーブルの天板を蹴り倒して呟いた。……父。家族を騙し、故郷を捨てた父。遠い。かれこれ十年にもなる。父はなぜ、あのような選択をしたのか。今でもわからない。だがそれを知るためにチューリッヒに父を尋ねていくつもりもない。彼は敵だ。  グラスは梟の声を目指して戸棚の角を曲がり、立ち上る埃を口に吸い、椅子の上を飛ぶ。帽子掛けに喉を突かれて呼吸に苦しみながら、足で乗り越え、手で隙間を広げて、血の流れこんだ目で前を見て進んだ。 「『奥深くには、悪魔が待つぞ』」  部屋の奥から梟がグラスにそう言葉を与えた。グラスは繰り返す。 『奥深く……』  故郷の森。町の東南にあった我が家。パンを焼く窯の裏側に広がっていた、あの森。カシ、ブナの木。子ども達だけで作った木の上の小屋。森で子らが迷わぬよう、大人たちはこう脅した。奥深くには、悪魔が口を開いて待っている……。  グラスは立ち止まり、天井に叫んだ。 「悪魔梟! お前は、何者だ!」  近くの家具に止まって梟が鳴く。 「私は森の者。遥か以前から森に住まうゲルマンの民たちを、木々の影から見守り続けている」 「未開諸民族の神か!」  どちらへ行く! 右と左に開いた道にグラスは首を往復させる。右! その先に揺れて立つペテールの姿を見て、グラスは迷わずその隙間に身をねじ込んだ。 「牧師!」  ペテールは返事しなかった。彼女はゆらゆらと歩き、三つ重ねられた黴の生えるスーツケースと鳥篭台との間の深い影の中に消えていった。グラスはズボンを引っ掛けた地球儀を踏み折って彼女を追う。大きな蜘の巣を二本の腕で払い、腰ほどの高さのスチールの台を押し退けてペテールの消えていった暗闇に近づく。だが、そこは行き止りだった。  グラスは引き返した。そしてスチール台まで戻った時、退いて振り返る。空気の流れと背中を突いた轟音。後ろでは一つ食器棚が倒れ、またその横の靴箱とオーディオセットがグラスを狙って倒れ掛かった。彼は寸前で避け、続いてがたがたと震え出した壁の剥製や粗雑に積まれた絵画とミシン台に気づき、急いで隙間を戻った。 「奥深くには、悪魔が待つぞ」  近付いた梟の声。シモンのいるベッドはすぐ側だ。追手のような家具や道具から逃れながら、グラスは『衝突』に備えて頭から湧き出す血を聖水で流した。  埃の舞う中、細める目の前に再びペテールが現われた。やけに汚れて見える髪の彼女は、幽霊のようにピアノを擦り抜け出て、向かいの収納家具の背に消えていった。グラスはその場に寄って、通るものかと家具の背面に触れる。が、ろくに調べる間も得られず、崩れてきた道具をかわし、隙間を抜けてその家具の前に回った。 「牧師」  家具の正面に立ったペテールに、グラスは距離をおいて声をかけた。 「ラエリネック神父」  しゃくり上げてペテールが言った。彼女は手に持った樫の十字架をグラスの足元に投げ、捻じ曲げられていく手で、部屋の奥を指した。 「はい」  傾いた重い家具が、紙のように牧師を倒す。電灯や花瓶、道具や置き物が、土砂のようにその上に降り注ぐ。グラスはペテールを助けだそうと必死に家具や道具を除けた。  梟がグラスを急かして鳴いた。  グラスは、震える手で、唸りの聞こえる家具の隙間に残りの聖水を垂らし、瓶を捨てる。 「今行く。悪魔」  グラスはこぶしで床板を叩き割り、十字架を広い上げてその場を去った。  グラスは倒れた家具に足を掛け、戸のある大きな本棚の上に登った。天井と迷宮の地平が広がっていた。グラスは梟の呼びかけに向かって家具の上を飛び渡った。そして、ベッドの上のシモンを見つけた。 「グラス君、君の父は森の深い所で、我らの姿を見たのだ……」  額の血を拭い、グラスはベッドに飛び降りた。 『衝突』。  日常の明るさ。この暗さ。グラスの青緑色の目に明らかになる言葉と言葉の格闘。押す者への抵抗と逆襲、熱波と冷気の交差。 「君の父は逸れた仲間を探して、森の中をさまよっていた」  横風を吹かせて梟が語る。 「それは、黄昏時。足を休めて下生に座った君の父は突然、あの言葉を思い出したのだ。『奥深くには、悪魔が待つぞ』……彼も幼少の頃はそう教えられ、その言葉は、恐るべき事として脳に焼き付いていた」  頭に姿が浮かぶ。ふん、馬鹿な、と髭を擦りながら一笑する父の姿が見える。この森……不気味にたたずむ潅木。紺に暗い空。不意をついた単発の鳥の鳴声。樹木の影どころか、周囲すべてに忍び寄る暗闇。乾燥する口内。長い間忘れていた、魍魎の気配……。  人の話し声。さらに深くの方向。どうともいえない気分で、斧を担いだ父は歩み寄る。全身に感じる複数の視線。誰かいるのか。呼び掛けるが、返事はない。暗闇の奥、揺れる人影。鉄のにおい。皆、いるのか? 彼は闇に踏み込んだ。  そして赤い眼光を見つける。最初から、視線は合っていた。手の力がゆるむ。担いでいた斧が、後ろに落ちる。  グラスの父は、小さく息を吸った。  ……全身に血をしたたらせた、皮のない人間。背を向け、地面にしゃがんでいたそれは、首を回して、彼を見ていた。それは、彼を驚かさぬように、ゆっくりと立ち上がる。  そして遠慮なく、獲物を見つけた嬉しさで、男でも女ない声を上げ、真っ白な歯を見せた。  父は逃げた。闇の中を彼は必死に、振り返らず走った。後ろの笑いか遠ざかっていく。  父は走り続けた。だが背後から、肉を打つような音が寄ってきた。朽木を飛び越え、地の枝を踏み折って走り続けた。歯を噛み鳴らす音が追ってくる。  父は一直線に村を目指した。不意に後ろから伸びた手が父を驚かすように、進路の先の茂みを騒つかせる。  父はそこで、木の根につまずいてしまった。  心臓が凍った。転がりながら、うしろの化け物の、剥出しの筋肉と白い腱を躍動させる姿を見た。  悪魔は口から液を吐いた。  ……それから、時間が経つ。気がつけば周囲はもう明るかった。カラスの鳴き声が聞こえる。父は飛び起きた。そして、すぐ傍に倒れて痙攣する、毛のない狼を見た。狼は黒い舌を出し、盛んに息をしている。父は小さな岩を振り上げ、狼の横に立った。  狼が喋った。 「お前、名前はあるか」  父は岩を落とし、叫んで逃げた。狼が横たわったまま笑い、鍋から噴くような蒸気を吐き出した――  ――梟が言う。 「急な跳梁が自然に反した。……君の父は怖れ、その森から遠ざかろうと必死だった。家に辿り着き、テーブルに伏して彼は震えた。今まで生活を送ってきた、その地のあやうさ。これからも続けていくなど、考えれば内臓が凍りつくことだ」  グラスは、記憶の中の父の姿を見た。朝。騒ついていた村人たちには構わずに、戸を閉めた父。テーブルに伏して、ただ震えていた。  森から聞こえた狼の雄叫びと、一帯を覆った暖かい霧。記憶との一致。何かの影が弱って座り込み、泣いている姿……、脳裏から吸い出される記憶。木々の揺らぎ、熱さ、父、子どもの頃、せつなさ、胸への圧迫。然るべくして司祭叙階へと繋がった、あの旅路の謎。  グラスの顎は固まった。肺は空気を吸い入れず、祈りを続けることはできなかった。グラスの頭には雑念が撒かれ、負の印象が横行する。家畜の死体。手垢にまみれた魔術の本。数年前の暦。燃える小屋。樹木に隠れた虫。それらの中で、祈ることは出来ない。  梟が言った。 「父を怨む君よ。君は、神父か?」  自分は今、なにをしているのか。グラスというのは自分なのか。グラスは言い返す。 「……父、父は」  声が出ない。 「言えば、君は信じたのか」  手作りの本棚。腕時計。寄り添う影を奪われ、散々に逃げていくごきぶりども。 「無条件に人を許せと君は信徒に意見した。だがな、君自身はそれを実行できない。これは何を表している? 簡単だ。君はキリスト者ではないのだ。聖職者のそのカラーも、見せ掛けのものだ!」 「……主イエズスの……御名によって命ずる! シモン・カステロウの内より去れ……」  黴の臭い。目が痛む。 「よく聞けグラス君、君は神父ではない。もうこの義務からは、解き放たれた。君にとって、このシモン・カステロウなどどうでもいい存在だ。何ら恩はない」  グラスは梟から目を逸らした。  この人物……。地域の資産家の一人息子として生まれたこの人間。整えられた道、与えられた能力、何ら苦労もせず、名を馳せていくのだろうか。十分に恵まれている。この人物に、情など必要もなかろう。  ……「無能」、「偏見者」、「腐敗」、ささやく『声々』。「君は十分に奮闘した」  梟が言う。 「このぼろぼろの寝間着の少年を見よ。未だに彼を救えない無能な神父。君は、神父には向かない」  眩むグラスは、十字架を、息切れする少年の動作――梟に向けた。 「いいか悪魔よ! 私は、諦めない。私は心に深い傷を負っても、殺されてもいい! たとえ一つだけ残されたこの十字架を失ったとしても、お前たちに服従する気はない! 私の魂を取り囲もうとするなら、試して見るがいい! 私はお前たちの中心で、イエス・キリストの御名を叫び続けてやろう。磔にされても、杭に打たれても、水に沈められても、両手と両足を奪われてもだ。数々の聖人たちと同じように、目を刳りぬかれても、鼓膜を破かれても、鼻と舌を焼かれても、内臓に痛みを起されてもだ。考え付く限りのいろいろな苦痛をもってもだ。たとえ……、私は、……私は、服従など……」  グラスはふらつく。頭からの流血が勢いを増し、血は目の縁をあふれ、シャツを不思議な感触に濡らす。 「悪魔に、など」  悪魔から止めの爪を刺される夢が、まぶたの裏に映る。 「おわりか」  グラスは最後に、敵となる相手を心に焼き付けようと、薄く目を開けた。  怯えた表情の、悪魔。  なぜだ……? 疑問が生じる。その疑問は、グラスの目を大きく開かせる。 「……天の尊きお妃さま、天使たちの女王さま……」  傍でゆっくりと、女が祈っていた。……エリザ。  屋敷の玄関を入った所に据えられた、聖母マリア像。儀式の準備段階から毎日見上げたその顔には、くっきりと陰影が現われ、神秘的に美しく見せていた。 「天使たちの妃聖マリアに向かう祈り。……天の尊きお妃さま、天使たちの女王さま。あなたは悪魔の頭を踏み砕く権能と使命とを神さまからお受けになられました。私たちは、謹んでお願い致します。私たちに、天使たちの軍団をお送り下さい。天使たちがあなたの指示に従って、様々な場面で邪悪さと戦い、その横暴を抑えて地獄に追い返しますように……。……ラエリネック神父さま、悪魔は弱っていると、あの子が教えてくれました。もう、一息です」  もう一息……? 儀式を完成できるのか……。グラスはさらに強く惹かれ、疲労の溜まった背筋を伸ばして、その信徒の言葉を受け入れた。 ■23  激烈なものに変わった頭の痛みに、彼は怒りの表情で抵抗し、息を荒くしてシモン・カステロウに要請した。 「少年! 君の心に巣食う負者に対し、憤慨せよ! 追い出せ! 悪魔は君の魂を永遠の地獄に引きずり込もうとしている。少年、我々は君を愛している。悲劇は見たくない。お願いだ!」 「美しいな神父!」  梟が蒸気を吐き出して笑い飛ばす。  少年に言葉は伝わったのか……? 再び、グラスの激痛が薄れる。 「だが、伝わるはずがない、届くはずがない。グラス君、我々はこの子どもを治めているのだ。分かるだろう?」 「悪魔よ! 私は必ず儀式を完成させ、ローランス神父を救う!」 「ほう。我ら王国の支配に不服なら、私の爪の前に歩み出るがいい。明確な決着をつけよう!」  その瞬間、頭の傷が冷たくなり、そこから針のように細い何かが差し込まれる感触がした。視線が振れ、後ろに引く力が倍増する。 「粘ったな、グラス君。誉めよう。さすがはローランス神父の選んだ後継者だ。さてではその影に重石をのせて、長く余った人生を味わうといい。私は去る」  グラスは後退り、背を本棚に付けた。 「主よ!」  悪魔も弱っている。絶好の機会だ。 「……一歩、一歩踏み出せ!」  グラスは自分に叫んだ。 「足を一歩踏み出す事が出来れば、その勢いは最後までお前を突き動かす! 勇敢に立ち、十字架を突き付けて悪魔を追放し、少年や立会人たちを救え! 苦痛も恐れもない、透明な人間に!」  グラスは念じる。震える足に力を入れようと集中する。一歩だけでいいんだ! 破滅を怖れるな! わずか一歩、一歩だけでいいのだぞ……!   梟が暗闇に一言命じた。 『現存』がグラスを取り巻く。起こるはずのない現象が――抜けるはずのない床が、起こるはずのない火事が――グラスの頭で騒ぎ、不安にさせる。そして心を支える頼みの十字架が熱くなる。手の内に炎が生まれ、聖職服の袖に燃え移った。首を後ろに倒してグラスは絶叫する。 「離してしまえ。そうすれば摩擦はなくなる」  見えない膜によって呼吸を閉じられたグラスはその声を聞き、薄れる意識の中、苦しさで目に涙を滲ませ、指の力を緩めていく……。  寝台の上の梟の存在感が一瞬かすれた。  神父さま……たすけて……。  子どもの声。  苦熱が一気に減少する。  グラスはこれまで以上に強く、十字架を握り締めた。 「私の守護の天使、今まで意識したことはないが、いるならば、お願いする。是非」  応じ、全身を覆う炎は突然消えた。グラスは感謝し、痛みでの涙を流したまま片笑む。 「少年、君が先に一歩踏み出したな」  部屋も、現在のあるべき姿へと戻る。  後ろにぺテールが倒れていた。悪夢を見ているかのように、閉じた口元を捻っている。  エリザは横でロザリオを繰っていた。  グラスは視線を戻す。  ベッドの上の梟は自分の胸を押さえ、情けない声で鳴く。 「この子どもは連れていこう」  梟は黄のシーツを放り上げた。放られたシーツは薔薇の形に皺んでベッドの上の空間に留まり、別の世界の妖しい光を発する。 「濁りのあるが故に美しい、その瞳……覚えておこう、グラス君……」  シモンの体が浮かび上がる。  グラスは背筋を伸ばして火傷のために発赤する手で十字を切るが、悪魔は取り合わず、見えない二つの爪で抱えた少年を、空間に開けたシーツの光の中に差し入れていった……。 「王国へ……」 「梟」  怒鳴ったグラスの横からエリザが飛び出した。 「行っては駄目!」  エリザはシーツの表に残る逆さのシモンを引き戻そうと、子どもの肩を抱き締める。が、強力な力に対抗できずに、自らも引き込まれていく。  グラスが頭の傷を押さえながら叫ぶ。 「その子を離すんだ……。役目によって命令する。あなたまで行かせるわけにはいかない。その子を、離すんだ」 「いいえ!」  エリザは怒る大きな目を向けた。 「ラエリネック神父さま、お祈り下さい。お祈り下さい。この子と、私のために。……私も、地獄はふるえるほど恐ろしいですけれど、この子一人では、心細いでしょう!」 「なんという……!」  グラスは、胸に十字を切った。 「少年よ、もうこれ以上、母の涙を見たくはなかったのだろう。だから一度は抵抗した悪魔に従い、自由意思によってここから去ろうとするのだろう。だが、君も聞いた。君の母は素晴らしい方だ。悪魔など、その前には立てない。決着をつける」  梟が吠えた。  グラスも十字架を構える。  グラスの脳に様々なイメージが流れ込んで来る。耳たぶ、鼻、乳首の浮く、血の水槽。そこに泳ぐまがまがしい魚の化け物。  割れんばかりの頭の痛みに目が見えなくなる。  グラスは両手で持った十字架を、浮び上がったシーツの方向に向ける。 「聞け、グラス・ラエリネック! 君の罪を私は知っているぞ! すべてだ!」  栞の代用の剃刀。飛んでいく色とりどりの風船。左ページにあったはずの詩。みみず。覆った蟻の大群。幼い頃、猫を生きたまま土に埋めた。 「我がイエズス、我が信頼」  小さな興行団。おどけたラッパの演奏。右ページにあった探し物、出し物を期待させるドラムの音。両親の言い付けを破り、仲間らと芸を見に行った。玉乗り少女と森で遊んだ。巡業を遅らせた彼女はひどい罰を受けた。 「我がイエズス、我が信頼」  見世物の終わった後のサーカスのテント。天井から下がった縄。パンから這い出すみにくい妖精。泥にまみれる解けた靴紐。つまらなそうな演者の顔。長いバス。黒炭。箆。となり町の子どもの鼓膜を破った。英雄の像のある広場。怒り狂う父。本を買うために両親の金をくすねた。帳簿に向かう父と母の姿。手紙。食事をしなかった父。シーツの血。青年の頃、同じ学校の女を弄んだ。 「雑多な罪だと言うか? なさけない! 最近では信徒への手紙の宛名を間違えていた。指導の文が届かなかったその信徒は、己れの判断で破滅の道へと進んだのだぞ!」 「我がイエズス、我が信頼」 「だが。これからの。君の最も大きな負い目となるもの。それは、チューリッヒの無感情で無機質な施設の個室で、だれからも外れて、たった今、父が、往ったということだ。この部屋のように、照明が暗い。小さなライトだけが、彼の死顔を、照らしているぞ! 狭い、部屋だ。寒い、部屋だ。……最後まで、愛する家族からは、理解されなかった!」  将来、滑った剃刀で指を怪我する自分、映す鏡。闇に吠えていた犬。どこまでも続く回廊。腹話術人形。焼きたてのパン。突然の爆発。懐郷。ドイツ。階段の工事。スコップで刺される猫。ベルトコンベヤ上の肉片。運ばれていく、ローランス神父と立会人たち……。 「その肉の父を切り捨て、次は生き方を教えたローランスを裏切り、そして君たちが父なる神と呼ぶ『後者』を見失った。君は三つの父を亡くしたのだ!」 「我がイエズス、我が信頼」  グラスは片手で十字架を持った。 「今更、何に拠ってものを言うのか!」 「我がイエズス、我が信頼」  グラスの視線が安定する。一切否定できるものではないが。 「……くまよ」  声がかすれる。息を吸い込んでもう一度声を出した。 「悪魔よ。お前たちは時折、言葉を短く切って話す。それは、なんだ? 息切れか? なぜに? ……それは、神の御名を何度も唱える我々の背後からの、力の圧力があるからではないか? お前たちは、神の御名に反する時、息を切らせてそれに抵抗しなければならないのだろう」  グラスはベッドに寄り、宙に浮かぶシーツに片腕を差し込んだ。燃えていた内部を探り、人の足首を掴む。 「私が、なすべきこととは?」  シーツはエリザとシモンを吐き出し、燃え上がって宙に消えた。  空気が振動する。  グラスは、ガラスのように透き通った二つの爪が開放される気配を感じた。  がちがちと音を鳴らした二本の爪が、荒れ狂う。幻覚であるはずのそれは、部屋中の床や壁を掻き荒らし、頭上の照明の破片を散し、狂喜してグラスを旋風の中に閉じ込める。 「このような幻覚を、私は見慣れるつもりはない」  本体の気配のあるベッドの上に、グラスは疲れた顔で微笑みをかける。  吠えた梟は三本目の巨大な爪をグラスの脳天目掛けて放った。  鋭い風はグラスの頭を掴み捻じ切ろうと上から襲いかかる。だが途中で屈折し、グラスの髪の端を切り落として床を刳った。 「父なる神よ、幾度も私どもをお救い下さいまして、感謝致します」  グラスは風圧で瞳に梁を受けたが狼狽えず、最後の祈りを唱えた。 「マリア姉妹団に伝わる祈り……。汝いかに我らを救い給うや、我らこれを知らず、されど汝の助け、たしかなり。そう……たしかなり……」 「やめろ! 貴様の家族を皆殺……」  グラスは鷹揚のない言葉で命じた。 「主イエス・キリストの御名によりて命ずる。シモン・カステロウの内より去れ」 『追放』。  連続した破裂音。  制御を失った爪の一つが窓を突き破る。もう一方、床に倒れる母子に向かった爪は、途中、見えぬ壁に衝突して粉砕する。  グラスは部屋を見まわし、胸に十字を切って両手を組んだ。 「AMEN」  滝か雪崩かのような轟音とともに、悪魔梟の気配は部屋から失せていく。  一年と四ヵ月間、少年とその一家を苦しめた悪魔、梟。若い悪魔祓い師のその前に、もはや抵抗の術などなかった。  ――完了。 ■24  昼。カステロウ家のテラスの椅子に、グラスは一人座っていた。  儀式は昨日、終了した。部屋の中、悪魔の去って行く様子を、グラスは全身で感じた。今まで痺れていた指に熱が戻る。耳の奥の痛みが消える。体が、思うまま自由に動く。力が抜け、グラスは十字架を落とす。十字架は床の上で休む。グラスは部屋を見回した。長年の常識が、戻る。  エリザはやさしい表情で、シーツに包まれて安らかに寝息を立てる少年を見つめていた。グラスはテーブルの下に倒れていたペテールを抱きかかえ、傷だらけの部屋を後にした。  何の確信がローランス神父を悪魔に立ち向かわせていたのか。今回の経験をモントルーのエルズナー神父に話せば、どう反応するか。  儀式の痕跡、フランソワは痴呆のように床を長く見つめ、口数も減らした。ペテールは背中に無数の打撲痕を受けたが、幸い内面での被害はないようだった。また、グラスは無表情のままのローランスから肩に手を置かれた。  ――ありがとう、グラス君――。  彼から生気が消えていたのが気になった。今後儀式を行うことがなくとも、彼は悪魔と戦い続けるのだと悟り、グラスは目を閉じて祈った。  テラス。後ろのガラス戸が開く。そのローランスが、はつらつと声を掛ける。 「グラス君、探したぞ。こんな所になどおらず屋敷に入りなさい。少年が検査を済ませて病院から帰ってくる」  グラスは庭を見たまま返事をしない。 「それとも既にアルコールに浸っているのかな?」 「抜け駆けなどしませんよ、ローランス神父」  グラスは椅子を離れて歩み寄り、自分の苦しみを周囲に漏らさない老いた友の背中を叩いて励ました。 「ただ、トゥールーズ市の観光を企んでいただけです」  少年が戻るまでの間、グラスは屋敷の電話を借りた。 「ラエリネックです。……エルズナー神父を」  グラスは首を下げた姿勢で待った。なぜか、目の奥が痛む。  廊下の先のホール、深刻な顔のアンリの肩にローランスが手を置き、熱心に励ましている。窓と窓。開け放ったドアの後の影。二階へと伸びる階段の裏。注目すると浮かぶ、カーペットの薄い染み。ここからでは見えない角度を映す大鏡。ゆっくりと歩く、鏡の中のフランソワ。グラスはゆっくりと首を動かし、『現存』を探した。身を固くし、疑って探す。本当にないか? 本当か? ……だが、ない。見つからない。  ……あるのは、レースのカーテンに緩められた優しい日差し。微かな料理の匂い。ローランスの暖かい声。静かな時間。……グラスは周囲を観察しながら、ゆっくりと息を吐く。 「日常……」  今まで感じていた息苦しさはない。グラスは目を閉じて祈る。  全ては過ぎ去った。あるのは、緩やかな、この、日常だけなのだ。  なんということだろう?   ……い……なあ……ラス君? ……。  おい、なあ……届いているのかい?   グラスは下げていた受話器を慌てて持ち上げる。 「悪い、エルズナー神父。久しぶりだ、私さ」 「おお! グラス君! グラス君! 生きていたか! おお神よ!」  モントルーの日常。 「死ぬもんか、神父」はは、と向こうも笑っている。 「良いことだ、良いことだよ。たとえラテン語を教わった後でも君には生きていてもらいたい。窯の中のシュトーレンには、パン屋の息子の目がいるんだもの。クリスマスに必要な人材だ」  受話器を押さえ、グラスは大きく笑った。 「エルズナー神父、その任務が終われば、やっと私は解放か?」 「いいや終わるもんかよ。次は私と一緒に映画を見るんだ」 「ああ、いいだろう」 「終わっても終わってもさ。そう、君はミステリも読むな。先日僕が買った本を貸してやるよ。面白いんだぞ」  グラスは頷いた。ホールの方が騒ぐ。見ると、皆、扉の前に集まっている。 「……おい君、いつ、帰ってくるんだ?」  落ち着いた声でエルズナーが言った。 「当然気になるだろうな。君に貸す本は私のトランクの中だ……。……ああ、遠い世界から、すでに帰って来たさ。面白い」 「なんだって?」 「帰ったら話そう」  簡単な言葉で電話を切り、グラスは皆の後から様子を覗いた。  表、プティジャンの赤い車から、家族三人が降りる。シモンが、エリザとプティジャンに両手を繋がれてやって来る。緊張した面持ちで待つ皆の中、アンリが手早く身を正す。 「まあ」ペテールが笑って首を傾けた。  レマン湖に映る日の瞬きのような笑顔を、少年はいっぱいに発する。一気にホールの雰囲気が変化した。抱き締めるフランソワに、戸惑った顔のアンリに、微笑むペテールに、ローランスに、並んだ順に挨拶をし、そして少年はグラスの元にやってくる。  これが、あの寝台上の少年なのか。グラスは唇を噛み締める。遠いところに居たのだな、君も。  十歳の少年はグラスを見上げた。  彼、被憑依者であった、シモン・カステロウ。屋敷に漂う御馳走の匂いを嗅ぎ、今は、心配していた悪魔憑きの痕跡もまったくなく、元気に笑っている。クリームのように滑らかで柔らかそうな頬に、久しぶりの笑み。これから彼は、たくさんの幸福と遭遇していくのだろう……そして、それ以外の出来事とも。大丈夫だ、少年は。悪魔に勝った少年を打ち砕けるものが、この世にあるか、なあエルズナー神父?   グラスは手を伸ばし、握手を求めた。 「はじめてだな、シモン君」 「神父さま、こんにちは!」  それが、少年の声。  それから、グラスは後ろを向いて目頭を押さえつけた。  ――街の風の緩いフランス南部の都市、ミディ・ピレネー地域の中央でもあるトゥールーズの地図。  歴史では、穀物の交易で成り立った街。今は数々の航空機会社と大学が支えている。  ガロンヌ川の縦断。ラテンの生活の痕跡。十二世紀のサン・セルナン寺院。ドミニコ会最初のジャコバン修道院。昔の商人の館、アザカ美術館。初日に見たあの通りの先には、沢山の見所があるのだろう――  儀式の準備と執行の中心であった、物置部屋。  グラスはベッドに座って頭部の傷を押さえ、窓から夕焼けを眺めて物思いしていた。 「グラスさん、ここにいらっしゃったのですね」  開け放ったドアから声がした。ペテールだ。グラスは夕陽を片手で遮り、ペテールを見た。小さな窓から差し込む、十分な光。よく見えない赤い世界の中、彼女の持つ銀の盆に反射して、夕日がさらに強烈になる。 「グラスさん、すごいわ」 「あくまで、私はローランス神父の補助です。やったことは少ない」 「いいえ……」  小さな声でぺテールが言う。 「なのに私は。情けないです」  グラスは首を振る。そして顔を下げ、組み合わせた手に額を押し付けた。 「ローランス神父は……」  グラスは軽く咳をし、言い替えた。 「ローランス神父の著作『もろき十字架は』には、悪魔祓いは六つの段階を持つと書かれています。『現存の確認』、『偽装』、『破局』、『声々』、『衝突』、『追放』。だが、それだけではないのかも知れない。著作の後書きの何かの文に、『余生』という言葉がありました。それが、頭から離れない……」  何も言えないでいるぺテールに、グラスは笑顔を見せる。 「あらためて。無事で良かった、牧師」 「……グラスさんこそ」  外の空。薄く伸びた薄紫色の雲の端が流されて溶けていく姿。二人は細めた目でそれを見た。 「……」 「何です、牧師」 「あの……いつ、モントルーにお戻りになられますの?」 「ああ。しばらくはまだここに居ますよ。ガイドブックを検証するためにね。二週間もトゥールーズにいるのに、私はこの街のことを全く知らない」  赤い日の中で、ペテールは鼻をツンと上げる。 「グラスさん。よろしければ、明日の昼、ご一緒にお食事でもいかがです。とっておきの、レシピがありますの」  グラスは立ち上がって腕時計を見た。溢れた光でよく見えない。 「いらっしゃって下さいますわね?」 「イエズス会士です。お招きならば、どこへでも」  ペテールははにかみ、手に持つ盆をグラスの前に上げた。 「プティジャンさんがワインを出して下さったんです」  コルク栓が抜かれる。ワイングラスを持つ手に揺らめく液体が映り込む。 「私、名前を、トワネットといいますの」  ソーテルヌの甘味がほのかに香った。  口説かれるのは何年振りだろう。神に人生を捧げる決意から、何年たったろう。グラスは小窓に寄って空を見上げる。この赤は照れを隠すのに都合よい。 「この地方では夕方になると、空までがワインに酔うようですね。モントルーの夕焼けはこれほど赤くはない」 「あら、グラスさんも素敵な事をおっしゃいますのね」  大きな影のグラスがペテールに向く。印象的な緑の瞳が不思議そうに彼女を見下ろす。  そう……当然ですわよね……。ペテールは微笑んだ。微笑んだまま、彼を見つめた。 「感謝を」  彼らしい敬虔な顔でグラスは杯を掲げる。 「三位一体の神、その恵みであるこの収穫の喜び、そして、郷土と、肉の父へ」  乾杯。  おかしそうにペテールが言った。 「グラスさん、くつろがれてはいかがです?」  指摘に、グラスも口のはしで笑う。 「残念ながら、今日までは務めでしてね」  そう、今日まで。そして明日から数日は、しばしの休暇が待つ。